2015年7月31日金曜日

時間は貯めることができない

仕事の繁忙期と閑散期があると、特に忙しい時期に痛感するのが、時間は貯めることができない、ということです。


忙しい時ほど、やらなければいけないことが増えて、同時に「したいこと」も増えるので、こればかりは身の回りが落ち着いた時にやらざるをえません。


自分の場合最近は、髪を切るタイミングと仕事の繁忙期が被ってしまうと、大変なことになると気づきました。(結構遠くの美容院を使っているため、時間をまとめて取らないといけない)


ただ、閑散期は閑散期で、モチベーションが完全に上がらないままだらだら過ごしてしまうことが多いので、一概に「時間は平等」とは言えないとも思っています。


繁忙期のほうがスイッチが入って、一分一秒の密度が高くなる感覚、分かっていただけますでしょうか。


まあ、先のことはわからないので、忙しくても暇でも、できる時にやっておくのが一番良いのではないかと思います。

一番確実なのは他でもない「今」ですから。


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言葉の貫通力

「言葉の貫通力」という言葉を先日耳にして、「そういう考え方って面白いな」と思いました。


恐らく私が考えている「言葉には力が宿る」ということの、言い換えなのではないかと思っているのですが、


確かに文章を読んでいて、心が動かされる、読み入ってしまう、泣いてしまう、というケースがあります。


文章っていうのはなにも、小説だけではなくって、論説文だったり、新聞記事だったり、ブログも含まれています。


では、どういう言葉に貫通力があるのか?と聞かれれば、一つには「実体験に基づくかどうか」が挙げられます。


読んでいて、「これはこの人が経験したことではないな」と思う時は結構あります。

そして、書き手の経験と読み手の経験が一致するか。「あー、それ分かる!」という気持ちになったことは誰てもあると思いますが、それってほかでもない、書き手が伝えたいことが、読み手の心にかかるから、なんですよね。

で、そういうリンクは、実体験が伴っていないとできません。


そういう意味では、そこまで貫通力のある言葉を使っている人、貫通力のある文章を書ける人って、そんなに多く接してきたことはなかったな、と振り返ってみて思うのです。

なぜか最近、後輩の就職活動の書類を見て欲しい、という依頼と何回か頂くので目を通すんですが、読んでいて他の全てを忘れてしまった、という文章には会ったことなかったんですね。

採用担当者だと、もう何万通ものメールや書類に目を通してきているので、ものすごく貫通力のある文章にも出会っているとは思うのですが、


もし私がそういう立場になると、文章を読むのがつまらなくなってしまいそうで怖いな、と思いました。



で、結局貫通力を持たせるには、自分自身がいろんな(そして強烈な)体験をしないといけなんだと思います。

あまり経験しない方がいいとは思うのですが、失恋とか、リストラとか、大切な人をなくしてしまう、とか、仕事でとんでもない失敗をしてしまうとか。


それか、映画や漫画、小説を読む。



こういうことを重ねて、「自分の心が動かされる」体験をする必要があるのではないでしょうか。


自分の心が動かされると、翻って「他人の心はどんな時に動かされるのか?」ということも考えると思いますし、そのあたりに本質が埋まっているような気がします。


話を聞いていて思いますが、ポジショントークをしている人の話は全く面白くありません。肩書では人の心を、根底から揺さぶることはできないのではないからなのかもしれません。

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2015年7月30日木曜日

質の高い毎日を送るための秘訣

仕事をしている場合は特に、「いい仕事をする」ことに神経を注いでいます。

裏を返すと「悪い仕事になりそうだ」と思った時は、断るようにしています。


メールとのやり取り、支払、自分の得意分野かどうか、納期の設定など。


こういう要素を一つとっても、私の場合は「大丈夫」か「そうでないか」ということを嗅ぎ取ることが、だんだんできるようになってきました。


組織で働いていると違うのかもしれませんが、どうしても向き合う時間が多くなる仕事において、自分に良い影響を及ぼす要素を多くするように心がけることが、一つの秘訣ではないかと思います。


今の仕事は、以前の経験や仕事から繋がっている部分が多く、気持ち良さを感じることが多いです。

日中はどうしても仕事ばかりになってしまいますが、仕事の後の時間も比例して、充実したものになっています。


できるだけ不平や愚痴を減らして、今のような状態を長く続けたいと思います。

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2015年7月29日水曜日

本気で生きる

最近は仕事に没頭することが多く、気づいたら夕方になっていたり、夕立に気付かずに窓のそばに置いていた印刷物が濡れていたりしたことがありました。


友達と遊ぶ時も、その時に自ずと集中できるようになっているのですが、これってもしかしたら、非常に恵まれていることなのかもしれません。


だって、世の中の大半の人は本気で生きていないから。


早く定時にならないかな、と思って時計を何度も見ていたり、

誰かの噂話を延々としていたり、

自分の価値観を顧みることすらせずに、世間が作り出した「他人の成功像」に踊らされていたり。


特に、仕事などでよく思うのは、人と(間接的にでも)向き合うのに、その中で、目の前の人、自分が関わるであろう人に対してきちんとした姿勢を示すことができない、というのは、恐ろしいくらいに失礼なことなんだろうな、ということ。


で、そういうことをしている人が多いから、福知山の脱線事故が起こったり、東電のずさんな対応が明るみになったり、今回の東芝の件が起こったりするのだと思う。



まあ、自分が偉そうに言える立場ではないのですが、結局、普段の行いが、ふとした拍子に明るみに出てしまうのだろうな、とは思うようになったし、そういう意味では、邪な考えを捨てて、本気で向き合った方が絶対に建設的で濃密な時間を過ごせると思うし、お互いのためになると思います。

(自分は人と向き合った時に、「あ、自分舐められているな」と思ったら一気にテンション下がってしまって、その程度の対応しかできなくなってしまうんですが、これはもうちょっと、直した方がいいかな、とは思っています。特に仕事とかで「それはないやろ」ということをされると、こっちもそれなりのことは考えてしまいます。)


まあ、変な部分にエネルギーを奪われないようにして、気づいたら没頭していた、というスタンスが一番良いのではないでしょうか。



2015年7月28日火曜日

朝の散歩

最近、朝起きるとすぐに着替えて、家の周りを30分くらい散歩するようにしている。


もともと、朝は早く起きて、仕事をし、ご飯を食べて、掃除をしてから散歩に出ていたが、そうすると太陽が結構高く昇って(朝8時くらいだけれども)、身体への負担が大きくなると思って、こういう風に変えてみた。


効果はてきめん、とまではいえないけれど、歩いているうちに目が覚めるので、こちらのほうがいいのかな、と思っている。車も人通りも少ないし。


あとは、朝起きた時は目のピントが合わないのだけれど(たぶん疲れ目?)、歩いているうちにそれが治るのもいい。

夕方に歩く時は既に疲れているし、朝一で歩くのが一番いいのかな、というのが、現時点での自分に取っ手の最適の選択だ。



2015年7月27日月曜日

人を見る目を養う

この五年間くらい、できるだけいろんな環境に身を置いて、いろんな人に会って、曲がりなりにも自分の「人を見る目」は養われてきたと思っています。


あまりに相性が合わない人、自分が関わることがなかった世界の人とは縁がないので、そういう人たちを見る目はまだまだ分からないのだと思いますが、

少なくとも、初見で「この人はこんな人だな」というのは、だいたい分かるようになってきました。


たぶん、採用のプロが「初見で相手を見たら全てわかる」と言っている、あの状況の、足元くらいの立ち位置にいるのではないかと思います(足元以下かもしれませんが)。


あとは、今まで色々と痛い目にも合ってきて、自分の中での「これはゴーサイン」「ここは引っ込む(待ち)」という、判断基準もだんだんとできてきました。


時々外れることはありますが、統計学的な話も絡めると、できるだけ多くのデータを集めれば(あくまで主観的な、自分の経験則になってしまいますが)、大きく外れることはないだろうと思っています。


だから、「だいたい人にこういうことをすれば好かれるのかな/嫌われるのかな」「こうすれば人は動くのだろうな」ということも、いろんなケースを自分の中でストックすることができました。


これからは、今までに学んだことをどんどんと使っていこうと思います。

もちろん、一生学びは続きますが。



2015年7月25日土曜日

振り切れる

厳密な因果関係があるかどうかは分からないのですが、


この夏にヨーロッパに足を運んだことが、結果的に大きな転機になったと思っています。


自分の進んでいる道が間違っていない、ということが分かったというか、

仕事を少し抱えながら、数年間使っていなかったポーランド語を使って初めての街に足を運んで、

向こうでの生活のイメージが一層強くなったというか。


「イメージできないことは実現できない」といいますが、今回は恐ろしいくらい鮮明に脳裏に映ったというか。


自分なりにいろいろと仮説を持って実行、検証を行ってきたことが、だんだんと証明されてきているのかな、という実感はあります。仕事で稼ぐことであったり、海外でのサバイバル能力であったり。


もっと自分に自信を持っていいとも思いましたし、変に自分に制限をかけるのもよくないと思いました。

そういうこともあって、帰国後は振り切れたというか、また新しい世界に踏み込んでみようとも思いましたし、何よりエネルギーをより一層投入できるようになりました。


後は、自分の見たい景色を実際に見るだけです。



2015年7月24日金曜日

長い時間をかけたからといって、必ずしも良いものが生まれるわけではない

画家や作家の話を聞くと、「作品のアイデアを出すのに時間がかかって、製作そのものに時間はさほどかからない」と言われる時がありますが、


どんな仕事にしても、かけた時間とその成果が正比例することは、まずないと思っています。


ここでの「かけた時間」というのは、アイデア出しや下調べに関する時間を除いた、「実際に手を動かす時間」とでもいいましょうか、


小説家で言うと、文章を実際に書いている時間。

美術家だと、筆でキャンバスに描いている時間。

営業だと、取引先に提案、取引先と交渉をしている時間になるんでしょうか。


自分は絵がうまくないのでなんともいえないのですが、中学生の頃の美術の時間に絵をかいていた時も、最初に書いたものが一番ましで、そこにいろいろと手を加えると、一層「微妙」になってしまったことが多々ありました。


今の仕事をしていても思いますが、翻訳って、何度も同じ文章を見直して、推敲を重ねる、っていうことは、自分の場合ほとんどありません。絵本や小説の翻訳だとそういうケースもあるのでしょうが、自分の場合は納期や一日の処理量との兼ね合いがあるので、なるべく「最初の一回で訳は決める」ようにしています。


他の人ってどうなんでしょうか。


こういうこともあって意識しているのは、何事においても「かける(費やす)時間が長いことが、いいわけではない」ということです。


仕事で言うと、成果にこだわる(むしろ、できるだけ短い時間で成果を出す)。

人間関係とかも同じだと思うんですけど、かけた時間、関わった時間が長いことと、良好な関係が築けることっていうのは、必ずしも正比例しないと思うんですね。(自分はそもそも、長時間人と関わるのができない人間なので、そういうことに意味を見いだせず、無理になってしまうタイプです)。


恐らく自分は、「できるだけ短時間で中身の濃いことをしたい」ということにものすごく価値を見出しているのだと思います。密度の濃さというか。

そのあたりの考えの違いで、人との相性も決まってくるのでしょうね。



2015年7月23日木曜日

キャパシティ増加

数か月前に比べて、明らかに仕事を捌くキャパシティが増えた。


以前はあたふたしていた部分も多いが、この数か月での仕込みが徐々に効いてきたようだ。


仕事に関わらず、何事にも「慣れ」は必要な面はあると思う。一定時間は「量をこなす」ことが、あらゆる物事に取り組む際(特に取り組み始める、最初の頃)は重要になってくるのではないか。


そしてここ数年、自分でも集中力が持たない、気が散る場面が多いな、とも思うようになった。これが続いていくと、30代、40代になると、もっと集中力はなくなっていくだろうし、そもそも「気力」がなくて、何かにエネルギーをぶち込めることもできなくなっていくのではないか。


だから、寝食を忘れるくらい何かに集中する経験は、10代の間に一度はしておくべきなのだと思う。受験勉強でもいいし、部活動の筋トレでもいいし、もっと言えば、テレビゲームでもいいと思う。


何かに打ち込んだ経験は身体が覚えていてくれるし、そこで成功体験を持っておくと(ゲームを全クリするとか、そんなのでもいい)、「これくらいの時間を投入すれば、これくらいはいける」という指標を、実体験として得ることができるから、なおさら自分の中の物差しが増えて、良いと思う。


自分もようやく、積み重ねがあることを実感できるようになってきた。




2015年7月22日水曜日

お金が価値を失った時、実業家は死滅するのか?

「世界(日本)のルールが変わって、今手元にあるお金の価値がなくなってしまったら、どうなるんですか?」


という話を、何度か友人としたことがあります。いわゆる「思考実験」みたいなものですけれど。


もしくは、「いくらお金を持っていても、税金が取られるだけだし、持っていてもと何かと不便だね」という話も聞きます。


こういう考え方が、嫌いなわけではありません。確かに、お金を手にしたが故に身を滅ぼしてしまった(とまではいかないまでも、苦しさを背負ってしまった)人を周りで何人も見てきましたし、今のギリシャの動向を見ていると、借金まみれのこの国だって、いつ自分の銀行からお金が引き出せなくなるかなんて、分かりませんし、ある意味恐怖ですらあります。


ただし、です。


最近思うようになったのは、特に今回のギリシャのような事態を見ている時に世間で言われる「あんな状態になるんだったら、お金を稼ぐ意味もないし、持っている意味もない。」というような意見には、どうも素直に首を縦に振れるわけではない、ということです。


一体お金とは、何なのか?という、本質的な話を、上の議論ではできていないのではないかと思うのです。



●お金の本質とは?

お金の話をしたとたんに、耳をそむけてしまう方もおられるのですが、そういう方は今回の記事は読んでいただかなくて構いません。ただ、自分で仕事をしている人は好きでも好きでなくても、お金と向き合うことは避けては通れないので、興味がある方は是非ご一読ください。その上で反論や意見などあれば、ブログのコメント欄にお願いします。


自分が思うに、お金とは「何かとの交換手段」です。


今回は、「自分がお金を手に入れる」ということを土台にしたいので、例えば仕事の場合だと、おおまかにいうと「自分が顧客(会社)に提供した対価として、お金(報酬や給料)を頂く」というのが、一般的な仕組みであり考え方になるかと思います。

アルバイトや会社員だと、この考え方がどうしても「自分が費やした時間(時給、月給)」に対する「得たもの(お金)」となってしまいがちなのですが、平たく言うと、社長や経営者には「これだけのお金を払うから、これだけの成果を残してね」という思いがありますし、「自分が提供する(できる)価値」を考えるほうが、頭を使うことになるので、良いかと思います。


ここで考えて欲しいのですが、果たして皆さんが手にする「報酬」は、「お金」の形でしか手元に来ないのでしょうか?


例えば、飲食店のホールやキッチンでアルバイトをしていると、賄いを用意してくれるところもあります。

外国人旅行客がやってくる安宿で仕事する場合、「お金は払えないけどタダで寝泊まり、食事ができます」という条件も、あります。(それでも「無給」っていうのは、どうかとは個人的には思いますが…)


他のケースが思いつかないのでこれくらいにしますが、仕事の「対価」として得るものは、何も「お金」だけではありません。


これはやや型破りな話になるかもしれませんが、例えば、仕事の交渉をする時に「この案件で○○円頂きます」というだけじゃなくて、「3ヶ月分の食事を提供してもらいたい」とか「住むところを無料で使わせてほしい」というような提案(交渉)は、(仕事の内容にもよりますが)論理的には可能でしょう。お金は月15万円でいいから、ご飯と寝床を無料で使わせてほしい、という交渉も、できなくはないと思います。


で、この考え方がベースにあると、(急に話を飛躍させてしまう感が否めませんが)「お金がなくても生きていける」というのは、実現不可能ではない筈です。


自分で農業をしつつ、家を作りつつ、近所の掃除をして差し入れをもらって…、と、これだけではさすがに心もとないですが(笑)、「お金以外のものを交換手段として用いる」ことを徹底的に実現できれば、「お金が価値を失っても生きて行けるよね」という考え方は可能です(実際にどこまでできるのか、自分もやったことがないので分かりません)。




で、です。


ここまでの話なら、別の方もされていると思います。本にでも書いていると思います。



私がここで言いたいのは、「実業家も、お金は手段でしかないと考えている」ということなんです。


これは実際にインタビューをして聞いたわけではないので、あくまで想像なのですが(苦笑)、


常人の何万倍も稼いでいる実業家は、恐らくお金の本質に気付いているでしょう。


それはさっきも言ったように、「お金とは交換手段でしかない」ということであって、もっというと、大事なのは「自分がどんな価値を提供しているのか」ということです。


ここが、「お金しか見ていない(考えることができない)人」との、一番の違いではないでしょうか。


本当に稼いでいる人は、一番大事なことは「自分が何を提供できているのか(どんな価値を提供できているのか)」ということであって、その結果として(それと交換して)お金を手に入れているにすぎない、という認識を持っているはずです。


そういう本質に気付いている人は、恐らく「価値の本質」「人を動かす本質」「仕事の本質」のような部分も気づいているので、異業種に移っても結果を出せるのではないかと思っています。だって、人が何に価値を見出すのか、どんな時に心を動かすのか、という世の中の根っこは同じだから。


だから、ブログの表題に戻るのですが、本物の実業家(だけでなく、いろんな方法、形で仕事をしている人)は、たとえハイパーインフレになってお金の価値がなくなっても、国が破たんして銀行からお金を引き出せなくなっても、それで死ぬことはないと思います。なぜなら「人が何を求めているか」「どんな価値を提供すべきか」という部分にフォーカスを当てるからです。

逆に、そんな状況にならないと「本物」と「まがい物」の区別はできないのかもしれません。


なので、本質に気付いて価値を提供している人は、莫大な儲け(資産)を手に入れていると思うのですが、その人自身はお金に対する執着を持っていないので(大事なのはそこじゃないと気付いているから)、貧乏な人を貶めることもないでしょうし、自分にコンプレックスを持つことも、反対に見栄を張ろうとすることもないはずです。


そういう部分に気付いたら、「いくらお金を持っていても、税金が取られるだけだし、持っていてもと何かと不便だね」なんていう話は不毛であることに気付けるはずです。






2015年7月21日火曜日

身銭を切る経験は早いうちにしておいたほうが良い

普段、買い物をする時に躊躇するケースってありませんか?


私の場合、サービス(形に残らないもの)を買うことに対しては殆ど抵抗なくお金を使えるのですが、財を買う時には、今でもためらってしまいます。

別に、新築の住宅を購入するとか、中古の車を買うとか、大きなお金が動く場合だけではないんです。


机に置く電気スタンドとか、よそ行きの服とか…笑われてしまいそうですが、未だにこういうものを買う時は「これ買って大丈夫かなー」と、ためらってしまいますし、どうも財布の紐が締まりがちになります。


人によっては、新幹線の切符を買うことを躊躇する方もおられるでしょうし、部屋に置く大型テレビを買うのにためらいが生じる方もおられるでしょう。


海外旅行に行くのに数十万円はなんのためらいもなく払えるのに、インテリアを増やすのに、数千円のアイテムを買うだけなのにいつまでも踏ん切りがつかない人だっているでしょう(かくいう私が、そんな人間です)。


最近考えているのは、


「人は価値にお金を払うのだ」ということ。


仕事帰りに友達と行く、一杯のラーメンにはいくらぐらいまで払うのか。

居酒屋だったらどうか。

海外の料理(例えばトルコ料理やスペイン料理)には、いくらぐらい払いますか?

誰と行くかによっても、私たちが支払うお金の額は違ってくるかもしれませんね。


東京に行くのに、3000円の夜行バスは利用できるか。1万円を超える新幹線は?最近はそこそこの値段で利用できるLCCなんてものも増えてきました。

片や、「長距離の移動は絶対に格安夜行バス!」というこだわりがある人がいれば、「長距離の移動だったら基本的に新幹線かな。夜行バスは使わない」という人だっています。

ここで大事なのは、人間は必ずしも「安いから」って理由で、何かを買うわけでは必ずしもない、ってことなんですね。


「安物買いの銭失い」という言葉がありますが、お金をケチってしまったが故に、「もう少しお金払って、あちらを買っておけばよかった」なんて苦い経験をしたことがあるのは、何も私だけではないでしょう。


そして、こういう「自分が払った対価と、受けるサービス(手に入れるモノ)がアンバランスなケース(特に、対価以上のものを得られなかったケース)」というのは、早い目に、できれば多く、経験しておいたほうが、その人のためになると思っています。なぜなら、そういう経験でしか、人は「モノを見る目(人を見る目、と言ってもいいかもしれません)」を養うことはできないからです。


5000円を払ったフレンチのディナーで、ウェイトレス(っていうのかな?)が料理をテーブルの上でこぼしたら、もう二度と行きませんよね?

LCCのセールで入手した航空券を使おうとしたら、飛行機が欠航になって、払戻も受けられず、旅行にもいけなかった。それだったら、振替便やホテルを用意してくれる、大手の会社を使った方がいいかな…という経験をした方もいるかもしれません。


ここでも大事なのは、自分の頭で考えること。


「自分はどこに価値を見出して、どれだけなら払えるのか。これだけ払った場合、このケースは許容範囲だけど、これをされるとダメだな」という、境界線というか、自分の中での「オッケー」と「NG」の境目を、作っていくことが大事です。


そういう経験が多いと、世の中の平均値(相場)がだいたいわかってきますし、そういう基準が自分の中に物差しとしてあると、「これだけの内容でこの値段は高い」「この安さだと何かまずいことがありそうだな…」という風に、自分の嗅覚もだんだんと磨かれていきます。

これは、仕事をする時にも、仕事を頼む時にも使える「ものさし」です。自分の時給や月給と、「自分が提供している対価」を比べてみる。経営の側に立つと、これを「自分が払っているコスト(人件費)と、その対価は釣り合っているか(黒字になっているか)」という風に考えるようになりますね。(雇われの身だと、「どれだけ対価を提供しているか」と「どれだけ楽に稼ぐか」の齟齬も考えないといけないので、しんどいのですが…笑)


いずれにせよ、こういうことを考えられるのは、「自分で稼いだお金を使ってみる」という経験をしてみないと、分からないものだとおもいます。人から借りたお金だと、どうしても「手に入れるむずかしさ/有難さ」というのが分かりづらいから。


特に学生の立場だと、座学で終わることが多かったり、授業等の関係でそこまで稼ぎに主眼を置ける立場ではないと思うのですが、大学の時だからこそ、座学と実学の両方を徹底することで、自分の頭が耕されると思っています。


別に学生に限った話ではありませんが、「自分が価値を見出したものにお金を使ってみる」という経験をする(そして失敗する)ことは、早いうちにしておいて下さい。

【関連記事】
多感な時期にはいろいろと経験しておいた方がいい



2015年7月20日月曜日

人と会うためのコストと、ドタキャンの話

自分は田舎に住んでいるのと、友人の多くが都市圏(大阪、東京)に住んでいるので、食事をする時の予定は早めに立てるようにしています。


一週間前だと遅いかな、という感じ。余裕をもって二週間前、というのが、自分では理想です。

ただ、相手の予定の都合もあって、なかなか早くから決まらないのが、現実ではあるのですが。


逆に、前日に「明日会わない?」って言われると、ほぼ100%無理な回答しかできません。たとえその日に偶然、大阪にいる予定があったとしても、心の準備ができていないし(苦笑)、別に予定を入れていることも多々あるので、基本的に断らざるを得ないのが実情。


で、人に会うのって結構コストがかかるんですよね。


私の場合、まず都会に出ていく、っていう時点で時間とお金がかかる。普段仕事も抱えているので、それとのやりくりも必要ですし、「その人に会うためだけに都会に出ていく」っていうのは、デートの時以外は基本的にないです。だって、ご飯して近況報告する2時間のためだけに、往復で3時間とか、時間は使えないですよ。どうしてもそういうケースが発生する時は、別の予定を半ば強制的に入れる、ってこともしています。


いずれにせよ、どんな状況であれ人に会うっていうのは、コストがかかるわけですね。時間とお金。時間という点で言うと、事前の予定合わせのためのメールとかにかかった時間も、ある意味「コスト」だと言えます。


で、たまにいるのが、前から予定を合わせていたのに、前日とかに急に「無理になった」っていう人でね、


法事とか病気とか怪我とか仕事とか、基本的にしょうがないと思いますよ。


でも、「相手にコストをかけている」って時点で、極力そういう可能性は排してほしいし(急な法事とか、どうしようもない部分はあるのは百も承知ですけどね)、仕事の予定が分からないのであれば、それまでのやりとりで「予定が確定するのがいついつになるんだけど、それまで待ってもらえる?」とか、そういうことを事前に伝えておくのはマナーだと思うんですよ。


自分が一回経験したことがあるのは、現地に向かっている電車の中で電話がかかってきて、「今日行けなくなった」っていうもので。


この時は、別の予定も入れていたので大丈夫でしたが、なんというか、相手に対する配慮がないというか、自分が相手の立場だったら、「もう二度と会ってくれないだろうな」とは思ったでしょうね。


いろんな事情がある、というのを理解して、前提に置いたとしてもですよ、


人と会うってことは、それなりに理由があるわけですし、理由を作っている場合もありますよね。


仕事であれプライベートであれ、その調整や行動には少なかれ時間とお金とエネルギーがかかっています。


自分が使っているエネルギーもそうですが、相手が自分より忙しい場合、立場が上の場合、自分以上に時間は貴重なはずです。


仮にそういう人が相手の場合、自分は果たして、ドタキャンなんてできるだろうか、と考えるわけです。


自分はそういうのができないタイプで、相手に対して失礼なことしてしまったし、もう次は会ってもらえないだろう、という風には覚悟しています。

「別にそこまで考えなくても」と言われるかもしれませんが、それが自分なりのポリシーなので、仕方がないです。

それに、世の中には、表には全く出しませんが、一回そういうことをしてしまうと、二度と相手にしてくれない人もいるので(それだけ厳しい世界に身を置いておられるのだと、私は考えています)、それくらいに覚悟はして当たり前だとも思っています。


別に、相手の立場が上だから、とか、関係ないですよ。


人と向き合う時に、相手のことをどれだけ考えているのか、というのは、常に私は見ています。

どんなお店を予約するのか(駅から行きやすいお店を選んでいるのか、相手の好き嫌いを考えているのか、等)、というのも見ていますし、段取りの良し悪しも見ています。


なんで見ているのかっていうと、自分が同じ失敗をしないようにするため、というのと、できる人から学びたい、という二点だけです。


だから、事前から予定を合わせていたのに、突然キャンセルされると、自分の中では相当ポイントが下がります。逆に、自分が相手位にしないように気を付けるようにするしかないのですが。


キャンセルするということは、「優先順位が低い」ってことでもありますし。仕事だとしょうがないかもしれませんが、(実際、自分も相手のことはあまり気にしませんけど)、自分が相手にしてしまうと、相手にどう思われるか分からないので、予定は万難を排して死守するようにしています。それが相手に対する礼儀だと思っています。


まあ、ここまで神経質に考えてやっている人は他にいないのかもしれませんが、こういう人もいるってことだけでも知ってもらえれば幸いです。



2015年7月19日日曜日

大気圏脱出

世間は三連休。


ようやく、世間が気にならなくなってきました。


ゴールデンウィークも仕事していましたし、


今週末も仕事ですよw


でも、ある程度自分の好きな時に休めるし、


混雑したところで神経すり減らすこともないし、


なにより、せっかくの休日に雨が降ったり電車が止まって「俺の大事な休日が!!」なんて絶望することがなくなりましたし。


太陽系の惑星探査機が素敵な旅をしていたように、


ようやく私も大気圏を脱出したようです。


あとは自分の道を進んでいくのみ。










2015年7月18日土曜日

仕事の時給と外注コストの話

仕事で使っている銀行の、時間外手数料(引出し、預入、振込等)が、この4月から変更になったようで、利用している身としては少し不便になりました。

年度が変わってからも、その変更を気にすることない時間帯で今までは利用していたのですが、先日は、お金の預け入れを平日の夜遅くにすることになり、振込手数料で108円が取られてしまったのでした。


自分が仕事で使っている銀行口座は、開設の時期や各種手続きのめんどくささから、「報酬振込用」と「クレジットカード用」の二つに、大きく分けています。

で、毎月クレジットカードの引き落としが迫ると、一定額を口座から口座に移す、という、ちょっと面倒くさいことをしているんですね。(使っている銀行が地方銀行ではなく、家の近くにないので、それらの支店がある街に出る時に、ついでに銀行口座のやりとりもしています)


今まではもちろん、手数料が一切かかっていなかったので意識しなかったのですが、この前手数料を払った時に考えたのは、「自分の仕事の時給を考えると、108円の外注コストは安いな」ということでした。


「振込手数料」(今回の場合、預入手数料ですが)って、一見(というか普通は字のごとく)「手数料」なんですが、これどういうことかというと、一種の外注コストですよ。


銀行の場合だと、「他行間でのお金のやりとりをするコストがかかりまっせ」という意味です。何かを得るには対価を何か払う。要するに、「仕事」の根本を表していると言えます。


で、先に述べた、自分の頭の中で考えたことをもう少し分かりやすく表現すると、「仮にこの預入を、手数料がかからない時にもう一度するのと、今108円を払ってでもするのと、どちらが得なのか?」ということになります。


仮に、今預入をしないと、別の日に、自分の家から銀行のATMがある場所までわざわざ出てきて、また手続きをしないといけません。わざわざ108円をけちって、一体自分はどれだけの機会損失をしてしまうのだろう?と考えたわけです。


家から銀行まで、自転車で片道10分はかかります。手続きと往復の移動を含めると、30分は時間がかかるでしょう。その間に自分ができること(例えば、抱えている仕事を捌く)は、明らかに108円以上の価値があります。つまり、預入手数料で108円取られても、他の時間でその支出はカバーできるし、108円をケチるほうが、将来的に108円以上の損を作ってしまう可能性が高い。


こういうことを考えるようになったのは、仕事が増えてきたここ数か月の事だと思います。少なくとも学生の時分は、手数料取られるのが嫌だったので、絶対に支払いませんでした。


他のケースで言うと、仕事で使うプリンター用の紙の購入。

いつも利用している家電量販店があって、時々決算セールのような、割引の案内が届きます。

以前はその時に、車を出して印刷用紙をまとめ買い(500枚×5セットで、計2500枚)したのですが、今振り返ると、あんなことせずにAmazonで買っておけばよかった話です。

もちろん、ネットで買う方が、家電量販店のセール時の価格より幾分高いです。ですが、家から店までの往復時間、購入にかかる時間、思い紙を持って帰る労力、この一連の動きで失ってしまう自分の時間、そういうものをトータルで考えると、Amazonで全て外注して、自分はドアの前でハンコを持って受け取るだけのほうが、明らかにコストがかかりません。その間に仕事だって記帳だって料理だって洗濯だってできます。


もっというと、時間と収入がある程度比例する(時間をかければ収入もある程度上がる)ような状態にいる会社員や経営者は、「苦手なことを外注すること」の大切さを知っているはずです。

私は経理(会計帳への記帳)が苦手で、できることであれば専門家にしてもらいたいと思っています。そして自分の仕事は、時間と収入がある程度比例する(裏を返せば、時間を割かないと収入が上がらない)仕事なので、

自分が記帳をすることで失う稼ぎ > 専門家に記帳をしてもらう場合にかかるコスト

の場合、記帳は外注に回した方が得なんですよね。
(この辺り、経営学でいう「最適分業」の話(A. スミスとC. バベッジの分業論)と自分の中では話が繋がっています)



こういう風に「お金」「コスト」という言葉を並べていると、「お前はカネの亡者か!」と言われそうですが、それでも「自分の仕事の価値(対価)と、外注コスト」を考えることは、仕事をする人では多かれ少なかれやっておかないといけないことでしょう。
(月給制の会社員でも、自分の時給がどれくらいなのかは計算しておいて損はないはず。)


その上で、仕事ではどれだけ合理的に判断、行動できるかが大事になってくると思います。特に、時間や案件ベースで仕事をしているプレーヤーの人にとっては。(経営者は経営者で、「法人」という立場で同じことを考える必要が出てくるわけですね)


で、「自分の時給と外注コスト」といろんな場面で考えてみると、頭を使うのでいい訓練になると思います。



2015年7月17日金曜日

又吉直樹は「お笑い芸人」の看板を取り払って勝負すべき

お笑い芸人の又吉直樹が、芥川賞を受賞したみたいですね。


ここまで来ると、ただの出来レース感しかないのですが…。


この人の「本の虫」っぷりは、業界でも結構有名みたいですが、あまり他に類のないタイプの芸人なんでしょうね。



で、誠に勝手な意見ではありますが、又吉さん、もう「お笑い芸人」の看板を外して、これから勝負していった方がいいと思うんですよね。


というのも、僕はこのコンビの漫才やコントを、M1グランプリの決勝で一回しか見たことがないわけでして(決勝第二ラウンドに残ったかどうかも覚えていない…)、しかもその内容も、残念ながら覚えていない(苦笑)


M1でいうと、歴代優勝コンビの、最後に披露した漫才はだいたい覚えているんですが、又吉さんのコンビのネタは、全く思い出せない。


で、なんで覚えていないかっていうと、実際のところ「たいして面白くなかった」のがその理由だと思います。


お笑いにはセンスや好みの違いで、ネタに対する好き嫌いは個人差があるのは承知ですが、


又吉、せめてお笑いの世界で大きな結果を残してから、芥川賞を取ってほしかった、というのが本音です。



だって、トッププロじゃないのに他の世界で名を成しても、正直微妙ですからね。

又吉が普段のバラエティ番組でどんなことを話しているのか、というのは、テレビを全く見ない身としては分からないんですが、これからはせめてふつうの「芸人」として、もしくは、れっきとした「文筆家」を肩書にして、勝負していってほしいと思いますよ。


芥川賞を取ったのだから、文章や言葉に対する感性や表現力は、随一なのは認めます。


ただ、そうなのだとしたら、もう文筆業を前面に出して欲しいですね。だってそっちで自信が持てるのなら、普通その肩書を使いますし、そんなに面白くもないのに「お笑い芸人」と呼ばれるのは、締まりがないというか…。


それに、「芸人」を名乗っていると、その肩書が「逃げ」になってしまう場合もありますから。

芥川賞=文筆業のトッププロの証、なのか、私はよく分からないんですが(野球や将棋と違って、勝率や成績といった客観的評価ができにくいので)、少なくとも彼は、お笑いより文筆業のほうが「より高い位置にいるプロ」であると、私は思います。


なので、退路を断つ意味でも、これからはお笑い芸人を捨てて、こっちの世界で勝負していってほしいんですよねえ。



まあ、M1グランプリに出た時もそうですが、大した成績でもないのにメディアが目に付けて引っ張りだこにして…というパターンに、今回もなってしまいそうですが。




2015年7月16日木曜日

また、新しい人に会ってみるのもいいかも

今年の後半は、「今までの人間関係を強めていく」ということで、新しい人には会わずに、これまでとのつながりを深めていくような期間にしようと思っていたのですが、


あまりそういうことにこだわらなくてもいいのかな、とも思うようになりました。


大学の後半は、もう自分でも無意味なくらいにいろんな人と会っていました。会社の人も学生も、なんだかよく分からない人も(笑)、いろんな人に会いました。


で、今思うのは、今の状態でいろんな人に会ってみると、また違う発見があるんじゃないかな、ということです。


例えば、以前より「この人とは話合いそうだ」「この人とは合わないな」と初見で思う、直感というか嗅覚は相当磨かれたと思います。

それは、今までいろんな人と会って、いろんな経験をしてきたからだと思うのですが、


過去の自分と今の自分がどれくらい違うのかを知りたい、っていう純粋な好奇心もあります。


もちろん、お会いした人から沢山学ぶこともあるし、自分が提供できることもあると思う。


ただ、純粋にもっと高みを目指したい、という思いもあるわけで。

「人を見る目を養う」というかね。


最近思うんですけど、やっぱり採用のプロって、履歴書とか職歴所を一目見ただけで、良し悪しを見抜く力があるんだろうと。


自分も、仕事でいろんな文章を目にする機会が多いのですが、そういう中でも「この文章は分かりやすい」「これはおかしいんじゃない?」とわかることが多くなってきました。

だからやっぱり、何事もある程度数をこなしていくと、見えてくるものがあるんじゃないかな、とは思っているのです。


目利き、じゃないですけどね。自分の見抜く力、見切る力をもっと高くしたいと思う、今日この頃です。



2015年7月15日水曜日

和佐・木坂ラジオのすすめ

最近聞いているのが、Youtubeにアップされている「和佐・木坂ラジオ」というものです。

自分が大好きな「一見何の価値もなさそうだけど、普遍的な、本質的な話」を、1時間くらい延々としている。

テーマも幅広いですし、興味のある方は是非ご視聴を。


例えばこんなテーマ↓















2015年7月14日火曜日

男の魅力は、カネ、ステータス、名誉で決まる一面がやっぱりある

仕事をやり続けていくと分かってきたんですけどね、



お金


地位


名誉


肩書


男って、そういうものが大好きな生き物なんだな、ってわかってきましたよ。






別に、だから女がどう、とか、男がどう、とかっていうのは、言うつもりはないのですが。


自分も仕事してて分かるようになってきたのですが、仕事で結果がついてくると、頂くお金の額が増えていくと、自信がみなぎってくるんですね。


そして、大きな仕事を動かす経験があると、ものすごくプレッシャーもかかりる経験もしますし、そういう男を傍から見ていると言葉で表せないくらいかっこいいし、自分もそうなりたいって思いますからね。


で、もちろん、男全員がこうではない、ってことは百も承知ですし、女全員がこれにあてはまらない、ってことも、十分に理解しています。


で、なんで今回こんなことを言い出したのか、ということなんですが、


世の中でのイメージ


って、大切だなって思うに至ったんですよ。


「男はカネやステータスで決まる一面がある」って言われれば、多くの人は、ある程度は納得してしまうんじゃないかと思うんですね。

もしくは「女は○○だ」みたいな話でも構いませんけどね。


固定観念というかバイアスというか、世の中に出回っている「これってあまり好きではないな」っていう風に思ってしまうかもしれない「一般常識」を理解しておく、心の片隅に置いておく、っていうのは、大事なんですよね。


だって、そういう「前提」があるからこそ、それに対する「アンチテーゼ」が意味を持ってくるからなんです。


男はカネやステータスで決まる一面がある」っていう考えがある程度理解されているから、「草食系男子」っていう、「アンチテーゼ」が話題性を持った、と思うんですね。

「レールを外れる」っていう考えも同じですけれど、そもそも「私たちの人生はレールの上を進んでいくものだ」っていう前提がないと、この「レールを外れる」という考え方自体、できるものではありません。


それに「男とは○○」「女◆◆とは」という前提があるからこそ、商品が作られるわけだし、「男とは○○、だけど◆◆」「女とは◆◆、だけど○○」というアンチテーゼが出せるから、また商品も作られるわけだし、新しいストーリーも生み出される。


私だって、「□□とは▲▲だ」というイメージを沢山持っているから、それに合ったものを買うわけだし、「いや、それを壊したい!」と思って、新しいストーリーに挑戦しようとも思えるわけです。


固定観念、一般常識、先入観。

これらは、人の心を大きく動かす一つの要素でもあるんですね。





ってことを、今回のタイトルを見た中でどれだけの方が考えたか、ですよね。

2015年7月11日土曜日

ポーランドの写真(グライェボ)

二年半前だったか、前回の渡航の際に本当にいろいろとお世話になった子が、ギジツコの近く(言うて2時間くらいの移動)に住んでいるので、会いに行ってきました。

会う二日前くらいに急きょメールしたのに、列車の時間調べてくれて、接続が悪いから別の駅まで車出してくれて、もう感謝しかありませんでした。

てか、覚えていてくれたのが嬉しいね。














日本でいうと北海道なのかな?

いやもう、本当に良かったですとも。

さすがにこの街に足を運んだことのある日本人は他にいないでしょうw
(もしおられましたら、ぜひお会いしましょう)


こちらの記事もどーぞ。












ポーランドの写真(湖水地方、ギジツコ)

写真に写っているのは海じゃなくて、湖です。










海賊王の世界に迷い込んでしまったみたいですよ、ホンマに。





ここからは自転車で湖の周りを一周してきたときの写真。










ここから下は、湖と湖を結ぶ運河。

アムステルダムもベネチアも行ったことありませんが、ここ最高ですよ。





この上の写真は駅ですねw









とにかく空が広い。それがポーランド。




夏のポーランドでお勧めの場所は?って聞かれたら、もう絶対に「ギジツコ」って言います。絶対です。













ポーランドの車窓から


近郊列車


ギジツコに行くのに利用した列車(ワルシャワ中央駅6時40分発)




※良い子はマネしないで下さい




ギジツコ駅に到着。


駅からは湖がうっすら見えます。


腕木信号機+非電化+機関車と客車、という、泣ける組み合わせ



これは帰りの、ワルシャワ行。







オルシュティン中央駅にて、ワルシャワ行。


車窓というよりも、鉄道写真になってしまった。