「あなたの夢はなんですか」
この質問、僕は大の苦手だ。特にここ二、三年で、自分の好奇心・興味の範囲が大きく広がったことと、かねてからの飽き症が組み合わさって、特段「夢を持ちづらくなった」。
かくゆう僕も、小さい頃は人並みの夢は持っていたと思う。もう10年も前の話なのではっきりと覚えていないことも多いけど、「タクシーの運転手になりたい」と小学校の卒業文集に書いた記憶があるし、それから鉄道好きに転身してからは「電車の運転手になりたい」と、中学校の卒業文集に書いたような、書かなかったような。
他にこれといった夢も思い出せないのだが、そんな人並みの夢は見ていたと思うし、それらを頭のどこかの片隅に置いてずっと生きてきたのは確かだった。
その折先日、「藪内さんの夢は何なんですか」と聞かれたのだが、これに対してすごく抵抗があり、いろいろともやもや考えていた。
その中で、自分の中で至った結論は、タイトルにもあるように
「今を生きていくには夢以上に哲学が必要」
というもので、今回はこれについて、思ったことをまとめておこうと思う。
ここで一般的な話をすると、夢を持つことは大事だと思うし、夢があるから頑張れる、という文言(金言?)は、世の中でも結構広くいわれている。
特に最近は、いろんな自己啓発書でも「夢をかなえるために、夢に期日をつけてそこから逆算し、今から夢の実現に向けて動いていこう」ということが頻繁にいわれている。
僕も、一年くらい前だったか、とあるフィナンシャルプランナーに世話になって、自分の夢の実現に向けてサポートしてもらっていた。
ただ、その時から、「夢の実現のための逆算思考」みたいなものには違和感を持っていて、結局根本的な考え方が合わないのもあってか、こちらから自然に離れていってしまった。
最近もやはり、「生きていくためには夢って必要です」ってことはいわれるのだけど、どうしてもやはり、僕の心はそれを受け入れたくないようだ。
そこで、「なぜ自分は、夢を持たない(持てない)のか」ということを、根を深く掘って考えてみた。
すると、ずっと前から自分が抱えている「古傷(トラウマ)」に、原因があるのではないかと思ったので、それをまず書いておくことにする。
恐らく、この体験が自分の哲学の全ての原点なのだと思う。
この記事の最初の部分に、自分が鉄道好きだと書いた。
僕がその世界の虜になったのは、小学校高学年の時に本で読んだ「夜行列車(ブルートレイン)」がかっこ良かったからで、いろんな写真や列車名を見ては、夜にある町を出発して、ベッドで横になりながら一夜を過ごし、翌朝に別の町に着く、という「旅情」にすごく興味を持っていた。
当時、小学生か中学生だった僕は、「大学に進んだらブルートレインに乗って日本各地いろんなところを旅しよう」という、ほかでもない「夢」を持っていたのだけど、実はこの夢が殆ど実現困難になってしまったのだった。
ここから先数行は、やや専門的な話になってしまうので興味がない人は読飛ばしてもらって全然構わないのだが、要するに、自分が大学に進む前に、殆どのブルートレインが廃止になってしまったのだ。
特に、2005年の3月、僕が高校に進学する15日くらい前に、元祖ブルートレインといわれた「あさかぜ」と「さくら」が廃止になり、その三年後、大学受験まっただ中の2008年3月には、「なは」「あかつき」「日本海(一往復)」「銀河」が廃止、同時に、その一年後に「はやぶさ」「富士」も廃止になる、という衝撃的なスクープが発表された。
2005年は仕方ないにせよ、2008年の廃止は自分にとっては本当に衝撃的で、確かこのニュースが新聞の一面に載った朝、僕は泣き潰れて何もできなくなってしまった。
列車の廃止ごときで喪失感に襲われるなんて、と思われる方もおられると思うが、当時の僕にとって、この二つの改正はトラウマ以外の何事でもなくて、その時から「夢は叶わないもの」と思うようになったのだと思う。
(たぶん、自分の生まれが一年早いか遅ければ、受験は気にする必要がなかったし、親に金を借りれば夢は叶えられたのだと思うが、受験のさなかということもあり、そこまでのことをする余裕はなかったと思う)
幸いにも、その出来事の後にも命を失うことなく生きてきた僕だが、この二つの出来事が「グッドタイミング」で起こったことは、「夢は叶わない」ことを知るには十分に大きな出来事だった。
実はそれまで、「夢が実現しない」とは
1、自分自身の物理的問題による(例えば、プロ野球選手を目指していてじん帯損傷や肩の骨折等で、実現しなくなる)
2、自分の経済的問題(高価な車が欲しいが、お金がない)
の二つだけだと思っていたのだが、この経験で
3、夢を実現するために必要な対象がなくなってしまうこと
もあることに気づいて、3が起こってしまうと、夢って実現できない、ということを高校生の時点で僕は悟ってしまったのだ。
例えば、「〇〇という島に行きたい」という夢があって、その島が地殻変動か何かでなくなってしまう(こんなこと、滅多に起こるものではないが)とか、家族や恋人、友人等が、命を落としてしまうとか。
それらが起こることを知り、それはいくらお金があっても賄えないし、なおかつ取り戻すことができない、ということを知ってから、自分の中で「諦観」ができてしまったのだと思う。
だから、ここ数年は殆ど考えなかったけれど、「夢は何ですか」と聞かれれば、このトラウマが心のどこかに眠っていて、「夢なんて持たない方が良い」という答えが、自分の中にやっぱりあるんだと思う(大学の時はよく思っていた)。
そういうわけで、僕は人から「夢はなんですか」と聞かれると、どうしても答えることができないのだと思う。
ただ、一つ付け加えておくと、自ら「私、こんな夢があるんです」と言うのは全然抵抗がない。
夢があるなら、それはどんどん口に出すべきだと思うし、その夢を聞いて、僕が何か力になることがあれば、そこは人を紹介したりして、サポートしていきたいと考えている。
でも、それを相手に聞くのは自分も抵抗があるし、自分が聞かれるのも好きではない。
「人の夢を聞いて何になるの」というのはあるし、逆に言うと、夢でも悩みでも、持っているけどどうすれば良いか分からない人は、こちらから聞かなくても、自分から「こういう夢(悩み)を持っているんですけど、どうすればいいでしょう?」って、聞いてくると思うのだ。
僕の場合、トラウマが眠っているから「人の土俵に土足で入り込まないでよ」という、とても堅いガードがあるのも事実だと思うが…。
と、ここまでが「自分が夢を持てない理由」なのだが、ここから後半、「僕はその代わりに、自分なりの哲学を持って生きている」ということについて、まとめたい。
前半の「僕が夢を持てない理由」はすこし特例かもしれないが、案外世の中には「夢を持てって言われても、いまいち分からない」という悩み(?)を持っている人って、案外いるのではないかと思う。
(雑誌や新聞でも読んだことが何度かある)
で、残念ながら、僕は多くの人がそういう風になるのかまでは分からないのだけれど、自分の場合で言うと、今「夢」を持ちにくいのは、
・世の中が今までにまして、流動的になっている
・夢を持たないことが「悪」だという認識が植え付けられている
ことが原因ではないかと思っている。
実は案外「夢」って曖昧な言葉で、どこからどこまでを夢とするのかは、各人によって違いがあると思う。
でも、今の世の中で「定年まで一つの企業で勤めるのが夢」であっても、それを実現することはとても難しいだろうし、「将来はこんな職業に就きたい」と思っても、その職業がなくなっている可能性だって、ゼロではないと思う。(ここで大事なのは「そんな仕事に就いて、食っていけると思っているのか!」という反論はそれほど意味がなくて、「仕事に就く」時点で夢はかなえられる。それ以上に、僕の例ではないが、「夢を叶えるために必要な対象そのものがなくなる」ことが、注目しなければならない点である)
もしくは、人それぞれ夢の大きさや具体性は違うと思うが、学校などでお互いの夢を比べたら、どうしても「夢は大きい方がいい」というような認識を、生徒は自ずと持ってしまうのではないか。
その中で、「夢は大きくないとだめ」「夢を持っていないといけない」ような、どこか「強迫観念」が植え付けられてしまっていないだろうか。
だから、「あなたの夢はなんですか」と聞かれても、変に人と比べてしまうのではないか。(この場合、「私の夢は…」と言われても、やっぱり自分のことを引け目に感じてしまうこともあるのかな。)
そこで僕は思うのだけど、夢ってあってもなくてもそれほど大差なくて、実は「今を生きる」という意味では、各人がどんな「哲学」を持っているかが、大事になってくるんじゃないか。
「哲学」っていうとおおそれた感じがするけど、要するに、「今をどう生きるか」を決めるのが、哲学なのだと思う。
そして、生きていくこととは、結局そんな「今」の積み重ねだ。自分の哲学を持って今を積み重ねいくことが、僕は大事なんだと思う。
僕も今まで、いろんなことを経験してきた。
大学三年の秋から、小さな会社のスタートアップに関わらせてもらったり、大学三年から四年に上がる春休みにインドに行ったり、等。
そして、そういう時になぜ自分がその道を選んだのかといえば、「今ワクワクするから」ということを直感的に感じ取ったことと、「自分が選んだ道に納得できるのか」という問を、徹底的に自分に向けたからに他ならない。
夢を持たない(他人から見ると、持っているのかもしれないが)自分にとって、あらゆる選択を取る時の基準は、「ワクワクするか」と「覚悟があるか」の二つで、それは両方とも、不確実な将来に対するものではなく、今自分がどう思うのか、ということに対して問うたものだ。
特に、大学三年から四年になる頃は、周りは就職活動をしていたが、自分はその道はどうしても取れずに、自分の直感を信じて道を選んだ。今振り返ると、「安定したサラリーマン生活」を捨てる道を選んだのだから、大した度胸を持っていたと我ながら感心するが、結局、自分の哲学と照らし合わせて生きていくことが、大事なんじゃないかと思う。(誰にだってゆずれない部分はあるのだし、それはその人の他ならない「哲学」だと、僕は思う)
哲学には、その人の生き様が現れる。
これは、将棋界の逸話なのだが、故米長邦雄名人は「自分にとってどうても良く、相手の首がかかった一番こそ全力で指しなさい」ということを言っていたのだという(米永さんが師匠から教わったのだったか、僕ははっきりとは覚えていない…)。
これは、相手にとっては、勝てば残留、負ければ降級の一番で、自分は勝ち負けが関係ない消化試合の一番こそ、相手のために全力で将棋を指しなさい、というものらしい。
自分にとってはどうでもいい一番だから、ついつい気を抜いてしまいがちだが、それは相手に対して失礼だ。だから、相手に全力でぶつかるように、というのが、この考え方の根っこにあるようだ。
こういう哲学(生き様、考え方)はいろんな世界で数えきれない程溢れているが、これらの根っこは不変で、いろんなところで応用・適用が可能だ。
だから、僕は「夢」以上に、自分なりの「哲学」をもって生きていきたい。
先の将棋の例なんて、言ってみれば自分の「夢」に関係ない。そして、目を向けるのは将来ではなく、たった今行われる、目先の一番、それのみだ。
けれど、その哲学は今後も経験する同じ状況でも使えるし、その繰り返しなんだと思う。
もちろん、僕には「夢」はないけど、漠然とした将来のイメージはある。(これは「夢」何だろうか?もしかすると、世間で使われている「夢」という言葉以上に「夢」の本義に近いかもしれないが、このあたりは言葉の定義・認識について再考するべきだと思う。)
けれどそれ以上に、今までの自分を形成してきたのは、自分の生き方、自分を支えてくれた家族、沢山の友人や知人に対しての自分の哲学であり、そこから自分の人生が切り開かれてきたことは否定できないので、僕はこれからも、自分なりの哲学を突き詰めて生きていくんだと思う。
夢はなくても生きていける。ただし、哲学を持っていれば。
あなたの哲学は、何ですか。
この質問、僕は大の苦手だ。特にここ二、三年で、自分の好奇心・興味の範囲が大きく広がったことと、かねてからの飽き症が組み合わさって、特段「夢を持ちづらくなった」。
かくゆう僕も、小さい頃は人並みの夢は持っていたと思う。もう10年も前の話なのではっきりと覚えていないことも多いけど、「タクシーの運転手になりたい」と小学校の卒業文集に書いた記憶があるし、それから鉄道好きに転身してからは「電車の運転手になりたい」と、中学校の卒業文集に書いたような、書かなかったような。
他にこれといった夢も思い出せないのだが、そんな人並みの夢は見ていたと思うし、それらを頭のどこかの片隅に置いてずっと生きてきたのは確かだった。
その折先日、「藪内さんの夢は何なんですか」と聞かれたのだが、これに対してすごく抵抗があり、いろいろともやもや考えていた。
その中で、自分の中で至った結論は、タイトルにもあるように
「今を生きていくには夢以上に哲学が必要」
というもので、今回はこれについて、思ったことをまとめておこうと思う。
ここで一般的な話をすると、夢を持つことは大事だと思うし、夢があるから頑張れる、という文言(金言?)は、世の中でも結構広くいわれている。
特に最近は、いろんな自己啓発書でも「夢をかなえるために、夢に期日をつけてそこから逆算し、今から夢の実現に向けて動いていこう」ということが頻繁にいわれている。
僕も、一年くらい前だったか、とあるフィナンシャルプランナーに世話になって、自分の夢の実現に向けてサポートしてもらっていた。
ただ、その時から、「夢の実現のための逆算思考」みたいなものには違和感を持っていて、結局根本的な考え方が合わないのもあってか、こちらから自然に離れていってしまった。
最近もやはり、「生きていくためには夢って必要です」ってことはいわれるのだけど、どうしてもやはり、僕の心はそれを受け入れたくないようだ。
そこで、「なぜ自分は、夢を持たない(持てない)のか」ということを、根を深く掘って考えてみた。
すると、ずっと前から自分が抱えている「古傷(トラウマ)」に、原因があるのではないかと思ったので、それをまず書いておくことにする。
恐らく、この体験が自分の哲学の全ての原点なのだと思う。
この記事の最初の部分に、自分が鉄道好きだと書いた。
僕がその世界の虜になったのは、小学校高学年の時に本で読んだ「夜行列車(ブルートレイン)」がかっこ良かったからで、いろんな写真や列車名を見ては、夜にある町を出発して、ベッドで横になりながら一夜を過ごし、翌朝に別の町に着く、という「旅情」にすごく興味を持っていた。
当時、小学生か中学生だった僕は、「大学に進んだらブルートレインに乗って日本各地いろんなところを旅しよう」という、ほかでもない「夢」を持っていたのだけど、実はこの夢が殆ど実現困難になってしまったのだった。
ここから先数行は、やや専門的な話になってしまうので興味がない人は読飛ばしてもらって全然構わないのだが、要するに、自分が大学に進む前に、殆どのブルートレインが廃止になってしまったのだ。
特に、2005年の3月、僕が高校に進学する15日くらい前に、元祖ブルートレインといわれた「あさかぜ」と「さくら」が廃止になり、その三年後、大学受験まっただ中の2008年3月には、「なは」「あかつき」「日本海(一往復)」「銀河」が廃止、同時に、その一年後に「はやぶさ」「富士」も廃止になる、という衝撃的なスクープが発表された。
2005年は仕方ないにせよ、2008年の廃止は自分にとっては本当に衝撃的で、確かこのニュースが新聞の一面に載った朝、僕は泣き潰れて何もできなくなってしまった。
列車の廃止ごときで喪失感に襲われるなんて、と思われる方もおられると思うが、当時の僕にとって、この二つの改正はトラウマ以外の何事でもなくて、その時から「夢は叶わないもの」と思うようになったのだと思う。
(たぶん、自分の生まれが一年早いか遅ければ、受験は気にする必要がなかったし、親に金を借りれば夢は叶えられたのだと思うが、受験のさなかということもあり、そこまでのことをする余裕はなかったと思う)
幸いにも、その出来事の後にも命を失うことなく生きてきた僕だが、この二つの出来事が「グッドタイミング」で起こったことは、「夢は叶わない」ことを知るには十分に大きな出来事だった。
実はそれまで、「夢が実現しない」とは
1、自分自身の物理的問題による(例えば、プロ野球選手を目指していてじん帯損傷や肩の骨折等で、実現しなくなる)
2、自分の経済的問題(高価な車が欲しいが、お金がない)
の二つだけだと思っていたのだが、この経験で
3、夢を実現するために必要な対象がなくなってしまうこと
もあることに気づいて、3が起こってしまうと、夢って実現できない、ということを高校生の時点で僕は悟ってしまったのだ。
例えば、「〇〇という島に行きたい」という夢があって、その島が地殻変動か何かでなくなってしまう(こんなこと、滅多に起こるものではないが)とか、家族や恋人、友人等が、命を落としてしまうとか。
それらが起こることを知り、それはいくらお金があっても賄えないし、なおかつ取り戻すことができない、ということを知ってから、自分の中で「諦観」ができてしまったのだと思う。
だから、ここ数年は殆ど考えなかったけれど、「夢は何ですか」と聞かれれば、このトラウマが心のどこかに眠っていて、「夢なんて持たない方が良い」という答えが、自分の中にやっぱりあるんだと思う(大学の時はよく思っていた)。
そういうわけで、僕は人から「夢はなんですか」と聞かれると、どうしても答えることができないのだと思う。
ただ、一つ付け加えておくと、自ら「私、こんな夢があるんです」と言うのは全然抵抗がない。
夢があるなら、それはどんどん口に出すべきだと思うし、その夢を聞いて、僕が何か力になることがあれば、そこは人を紹介したりして、サポートしていきたいと考えている。
でも、それを相手に聞くのは自分も抵抗があるし、自分が聞かれるのも好きではない。
「人の夢を聞いて何になるの」というのはあるし、逆に言うと、夢でも悩みでも、持っているけどどうすれば良いか分からない人は、こちらから聞かなくても、自分から「こういう夢(悩み)を持っているんですけど、どうすればいいでしょう?」って、聞いてくると思うのだ。
僕の場合、トラウマが眠っているから「人の土俵に土足で入り込まないでよ」という、とても堅いガードがあるのも事実だと思うが…。
と、ここまでが「自分が夢を持てない理由」なのだが、ここから後半、「僕はその代わりに、自分なりの哲学を持って生きている」ということについて、まとめたい。
前半の「僕が夢を持てない理由」はすこし特例かもしれないが、案外世の中には「夢を持てって言われても、いまいち分からない」という悩み(?)を持っている人って、案外いるのではないかと思う。
(雑誌や新聞でも読んだことが何度かある)
で、残念ながら、僕は多くの人がそういう風になるのかまでは分からないのだけれど、自分の場合で言うと、今「夢」を持ちにくいのは、
・世の中が今までにまして、流動的になっている
・夢を持たないことが「悪」だという認識が植え付けられている
ことが原因ではないかと思っている。
実は案外「夢」って曖昧な言葉で、どこからどこまでを夢とするのかは、各人によって違いがあると思う。
でも、今の世の中で「定年まで一つの企業で勤めるのが夢」であっても、それを実現することはとても難しいだろうし、「将来はこんな職業に就きたい」と思っても、その職業がなくなっている可能性だって、ゼロではないと思う。(ここで大事なのは「そんな仕事に就いて、食っていけると思っているのか!」という反論はそれほど意味がなくて、「仕事に就く」時点で夢はかなえられる。それ以上に、僕の例ではないが、「夢を叶えるために必要な対象そのものがなくなる」ことが、注目しなければならない点である)
もしくは、人それぞれ夢の大きさや具体性は違うと思うが、学校などでお互いの夢を比べたら、どうしても「夢は大きい方がいい」というような認識を、生徒は自ずと持ってしまうのではないか。
その中で、「夢は大きくないとだめ」「夢を持っていないといけない」ような、どこか「強迫観念」が植え付けられてしまっていないだろうか。
だから、「あなたの夢はなんですか」と聞かれても、変に人と比べてしまうのではないか。(この場合、「私の夢は…」と言われても、やっぱり自分のことを引け目に感じてしまうこともあるのかな。)
そこで僕は思うのだけど、夢ってあってもなくてもそれほど大差なくて、実は「今を生きる」という意味では、各人がどんな「哲学」を持っているかが、大事になってくるんじゃないか。
「哲学」っていうとおおそれた感じがするけど、要するに、「今をどう生きるか」を決めるのが、哲学なのだと思う。
そして、生きていくこととは、結局そんな「今」の積み重ねだ。自分の哲学を持って今を積み重ねいくことが、僕は大事なんだと思う。
僕も今まで、いろんなことを経験してきた。
大学三年の秋から、小さな会社のスタートアップに関わらせてもらったり、大学三年から四年に上がる春休みにインドに行ったり、等。
そして、そういう時になぜ自分がその道を選んだのかといえば、「今ワクワクするから」ということを直感的に感じ取ったことと、「自分が選んだ道に納得できるのか」という問を、徹底的に自分に向けたからに他ならない。
夢を持たない(他人から見ると、持っているのかもしれないが)自分にとって、あらゆる選択を取る時の基準は、「ワクワクするか」と「覚悟があるか」の二つで、それは両方とも、不確実な将来に対するものではなく、今自分がどう思うのか、ということに対して問うたものだ。
特に、大学三年から四年になる頃は、周りは就職活動をしていたが、自分はその道はどうしても取れずに、自分の直感を信じて道を選んだ。今振り返ると、「安定したサラリーマン生活」を捨てる道を選んだのだから、大した度胸を持っていたと我ながら感心するが、結局、自分の哲学と照らし合わせて生きていくことが、大事なんじゃないかと思う。(誰にだってゆずれない部分はあるのだし、それはその人の他ならない「哲学」だと、僕は思う)
哲学には、その人の生き様が現れる。
これは、将棋界の逸話なのだが、故米長邦雄名人は「自分にとってどうても良く、相手の首がかかった一番こそ全力で指しなさい」ということを言っていたのだという(米永さんが師匠から教わったのだったか、僕ははっきりとは覚えていない…)。
これは、相手にとっては、勝てば残留、負ければ降級の一番で、自分は勝ち負けが関係ない消化試合の一番こそ、相手のために全力で将棋を指しなさい、というものらしい。
自分にとってはどうでもいい一番だから、ついつい気を抜いてしまいがちだが、それは相手に対して失礼だ。だから、相手に全力でぶつかるように、というのが、この考え方の根っこにあるようだ。
こういう哲学(生き様、考え方)はいろんな世界で数えきれない程溢れているが、これらの根っこは不変で、いろんなところで応用・適用が可能だ。
だから、僕は「夢」以上に、自分なりの「哲学」をもって生きていきたい。
先の将棋の例なんて、言ってみれば自分の「夢」に関係ない。そして、目を向けるのは将来ではなく、たった今行われる、目先の一番、それのみだ。
けれど、その哲学は今後も経験する同じ状況でも使えるし、その繰り返しなんだと思う。
もちろん、僕には「夢」はないけど、漠然とした将来のイメージはある。(これは「夢」何だろうか?もしかすると、世間で使われている「夢」という言葉以上に「夢」の本義に近いかもしれないが、このあたりは言葉の定義・認識について再考するべきだと思う。)
けれどそれ以上に、今までの自分を形成してきたのは、自分の生き方、自分を支えてくれた家族、沢山の友人や知人に対しての自分の哲学であり、そこから自分の人生が切り開かれてきたことは否定できないので、僕はこれからも、自分なりの哲学を突き詰めて生きていくんだと思う。
夢はなくても生きていける。ただし、哲学を持っていれば。
あなたの哲学は、何ですか。
0 件のコメント:
コメントを投稿