2014年2月27日木曜日

僕が究極的にしたいこと

旅とか地元で仕事造りとか海外生活とか、いろいろとしたいこと、やりたいこと、行きたいところはあるんですが、究極的にしたいことって実は「気の会う仲間と、朝から晩までコーヒー片手によしなしごとをただひたすら語り合う」っていう、ヨーロッパのカフェにいそうな、どこかブルジョワめいたことなんです。

ここ3年くらい、自分なりの生き方を模索する中でいろんな人に会いました。いろんな考え方、生き方を持っている人がいる中で、ああ、この人とは全く話が合わないな、という人がいれば逆に、なんでここまで考えていることが似ているの?という方もおられました。

特にここ最近は、付き合う人もジャンルが限定的かつ、考え方が似ている、近しい方が殆どです。頻繁に会うというよりは、時々お茶したりご飯をしながら自分の考えや経験をお互いに話して、話題が膨らんだり新しい気づきがあったり、ということが多いのですが、そういう人たち何人かと、毎日一日中話をしたい。語り合いたい。

別に、そこから何かが生まれなくてもいいし、何かを始めるきっかけにならなくてもいい。ただ、「ああ、この人はこんなことを考えているんだ、ここは僕も同じだな、でもここは違う、どうして違うのだろう、なるほど、こういうことなのか」っていうことに気づいたり、自分をぶつけあったり、ということを繰り返して、一日を過ごしてみたい。


もちろんサシで。男女問わず。(現時点でそういうことをしたい相手は5人くらいか。)

これは別に、キャリアに繋がる訳でもないし、具体的にお互いどんなメリットがあるのかも分からない。けれど、そんな「無駄」なことが、案外人生の本質であったりするのかもしれないと思っている。陽のあたる、風の心地よいテラスで入れたてのコーヒーを片手に、とにかく話がしたい。微妙な間も楽しみながら。

コーヒーだけじゃなくてもいい。

チーズとワインを片手にしながら。

オリーブをつまみながら。


そんな風に流れていく時間を共有して、「ぜいたくに」楽しんでみたい。


僕の「やりたいことリスト」はこちら

2014年2月26日水曜日

「時間軸を横に倒して仕事をする」って、できないのか

もう2年半ほど前に話題になった記事なのだけれど、人生の時間軸を横に倒せという、大石哲之さん(ノマド研究家)のブログ記事がある。

これを読んだのは自分が大学生の時なのだけれど、内容を知って背中に電撃が走ったのは今でも覚えている。

で、今実際にフリーランスという業態で仕事をしているのだけれど、「時間軸を横に倒して仕事をする」って、もっとフレキシブルに実現できないのか、と思う。

今自分は、基本的に家にいながら仕事をして、時たま外に出て仕事をしたり、というようなスタイルを貫いている。時には関東に行ったり、安い航空券が見つかれば海外に行ったりと、仕事もプライベートも線引きできないような形で、あちこちをウロウロしていることもある。

けれど、実際のところ仕事の量も不安定で、毎月安定した仕事量、収入を作っているのかといえば、それは正直いって否だ。


そこで時々、自分の仕事に関係のある内容で、週に一日でも二日でも、どこかに勤める、オフィスに行く、というようなスタイルで働けないか、と考えるのだが、これが案外難しい。

というのも、翻訳のオフィスワークを探していると、どうしてもアルバイト、パートという業態区分ではあるが、週5日、フルタイムと同じ勤務期間での条件が出ているところがヒットするのだ。
(別の条件もあるのだけど、おそらく情報が出回っていないし、圧倒的に少ない)


例えば、月曜と火曜は事務所に通って、残りの日はフリーランスとして自分の仕事を捌く、という風に仕事ができれば、一週間で気分転換もできるし、収入もそれなりに安定する。(オフィスで働くことが一種のベーシックインカムになる)


けれど、現実的な選択肢を考えると、それが難しい。

だけど、自分はそんな風に仕事もしてみたい。


「時間軸を横に倒す」ということには自分も賛成なのだけれど、それをどのように実践して形にするのか、ということがまだ分からないし、しっかりとした道が作られていないように感じる。


週五日事務所に行くのが条件、とあるけど、それって本当に必要条件なのか、「ワークシェアリング」のように、もっと仕事を細分化して、Aさんは月曜火曜、Bさんは水曜木曜に事務所に来る、というように、仕事の分担を「横に倒す」ことって、もっと広まった方がフレキシブルにみんな働けると思うのだ。

もっといえば、一人の人が週の前半と後半で別の会社で仕事をしたり、午前と午後で別の会社で働いたり、ということが実際に行われれば、収入のリスクも分散されるし、休暇も取りやすいだろうし(フルタイムで仕事を抱えているとその調整が難しいけど、仕事時間が短い=受け持ちの仕事量が減る分調整が付きやすい、という意味で)、全員が全員こういう風には働けないと思うけれど、こんなふうな「しなやかな」仕事の仕方って、もう少し市民権を得てもいいんじゃないか。
(企業側のデメリットについても洗い出さないといけないが)


僕自身、もうちょっとスキル的な面で研鑽を積みたく、かつフラフラと旅をしたり、人と会ったりということもしたい。ただ、今の状態だと、時間とお金(収入)がトレードオフになってしまうから、もうちょっとニーズに合わせた仕事の仕方って、形になるべきなのだろう。
僕みたいに「同時に複数のことをちょっとずつしていきたい」っていう、「時間軸を横に倒」したい人がどのくらいいるのかは分からないけど、潜在的に一定数あるのは間違いないし、そういう人の思いをなんとか形にした、しなやかな働き方って形にできないだろうか、というのが最近の悩みだ。

2014年2月25日火曜日

自分に足りないもの

最近、「心が動かされる」体験、経験が少なくなっていると感じるようになった。

仕事にしてもプライベートにしても、人と会ったり、話したりはするけど、なんというか、ぞくっと心が動く、そんな経験がない。



仕事で言うと、最近は与えられたものを右から左へ流していることが多くなったと感じる。これはまずい、もっとクリエイティブにやっていきたいし、そうしていかないとまずいと切実に感じる。

心が動く、という意味では、最近「永遠の0」と「竹取物語」を見て、これは共に号泣してしまった。シンプルなんだけど「生きる」っていうことの素晴らしさ、重さみたいなものをドドーンと受け取って、心が動いた。

おそらく、そんな世界と自分が生きている世界にギャップができてしまっているんだろうと思う。


自分が作り出したいもの、自分が表現したいものってなんなのだろう、とようやく(再び)考えるようになった。


答えはまだ見えないけど(おそらく見失っているだけなんだけど)、やっぱり「作り出す」ことにこだわりたいんだと思う。ここにないものを、作り出す。形になっていないものを、作り出す。具体的な何かは、よくわからない。けれど、自分の毎日に足りていないものは、たぶんこれだ。台湾を旅している時に一度気づいたのだけど、帰ってきたらまた埋もれてしまった。そして、その作り出したもので、人の心を動かしたいのかもしれない。


つい最近、岡本太郎の「自分の中に毒を持て」を再読したのだけれど、彼もこんなことで悩んでいたのだ。
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自分が作り出せるものは何か、もっというと作り出したいものはなんなのか、という話になるのだろうけど、それにはもっともっと、足を動かして世界を見ないといけないのだろう。仕事柄部屋に籠らないといけないのだけれど、それが果たして自分に適しているのか、そんなことも考え直してみる機会なのかもしれない。
(でもたぶん、今はエネルギーの停滞期だから、これは単なる幻想であって、言い訳なのだ)

2014年2月23日日曜日

半強制ネット断捨離生活

台湾でなぜかiPod touchを紛失してしまい、旅の途中からこれなしで生活しています。

帰国してからも、基本的にパソコンしか使わず、ポケットWi-Fiはあるのにデバイスがないという、「デバイス難民」というしごく稀な環境を体験しています。

こういう端末は、あったらあったで常時ネットに繋いでしまうので、あまり良いものでもないのですが、いざという時にネットに繋ないと困ることを痛感しました。

①メッセージの確認ができない
ポケットWi-Fiを使い始めてから、携帯電話のメールアドレスは解除して、通話のみの機能を使っています。メールはフリーメールに集約し、パソコンか端末で確認、やりとりをするのですが、端末がないと移動中などにメール(やLINE、Facebookのメッセージ)が確認できません。

人と会うのに、今までなら待ち合わせの時にFacebookやメールを確認していましたが、それができないので事前に電話番号を伝えて、向こうのも教えてもらって…という、ヒジョーに面倒なやりとりをしなければならなくなりました。(家を出るとネットに繋げないので、早めに対応を取らないといけません。)

②電車の時間を調べられない

プライベートでも仕事でも、移動は基本的に電車なのですが、これも端末がないと不便です。

スキマ時間にiPod touchを開いてアプリで時刻検索をできたのが、わざわざパソコンを開いてしなければならなくなり、それも忘れて閉じたパソコンをもう一度開いたり…ということが必要になりました。本当に面倒くさい。


ただ、実際の所困るのはこれくらいです。(①は結構重要な問題ですが…)


逆に、ネットに繋がなくなったメリットと言えば

①本や資料を読むようになった

休憩や移動時間に、今までは意味なくTwitterを見たりネットサーフィンをしたりしていましたが、それもできないので本を持っていったり、読みたい資料を印刷して持ち運んだり、ということが多くなりました。

②ぼーっとする時間が(少し)増えた

寝る前や休憩中も、何も考えなかったり身体を動かしたり、とにかくネットから離れて何かをする(もしくは何もしない)ようになりました。善悪は微妙ですが、気分転換を図れるようになったのは大きなメリットです。


◎不便なほうが智恵が付く?

僕は今まで、スマホを持ったことがありません。

前に仕事で、一時期だけ持っていましたが、ネットサーフィンをしてしまったり、ムダにいじってしまったりと、ムダで生産性のない時間が増えていたのは確かでした。

タブレットにしてもそうなのですが、常時インターネットに繋げると、ちょっと調べ忘れたことや興味のあることを、その場その場で調べられることになる一方で、それは細切れの時間になってしまい、まとまった時間腰を据えて何かに取組む、ということがなくなってしまいます。

他にも、目的地までの行き方もその場で調べたり、移動方法もその場で調べたり…と、行動がだんだんとインスタント化している傾向があるのではないでしょうか。

僕の場合、iPod touchを使っていて常時ネットに繋げる訳でもないので(ポケットWi-Fiの電源を入れたり、それを忘れたり)、とにかくネットに繋げるうちにまとめて移動方法を調べたり、場所を確認したりして、メモを取るかスクリーンショットで残しておくか、ということをしていました。

こんな風に「ちょっと」不便なために、スケジュールを考えたり「いましておくべきこと」を予め考えたりと、とにかく頭を使います。その中で、いつ何をしようか、どのようにメモを取って保存しようか、ということも、細かいことではありますが、頭を使うようになります。


なんでも「インスタント化」する世の中は、それはそれで便利なのでしょうが、予め起こりうることを想定して行動をとることができなかったり、インターネットに繋げなくなった時等、緊急事態への対応がままならなくなってしまうという負の側面があるのもまた事実なのではないでしょうか。


インターネットや、それに繋ぐデバイスがなければ不便なのは確かですが、この機会に逆に、ネットに繋げない便利さ、大切さも確認することができました。

中学校時代の先生と食事

今日は、10年程前に自分が中学生だったときにクラスの副担任だった先生と食事に行ってきました。


実に9年、10年ぶりの再開。

副担任だった時に年賀状を送るのに住所を伺って、それ以来殆ど毎年やりとりをして、この機会に再開ができました。


ちょうど、僕が中2の時に新任で来られた先生で、年も僕と10年ほど違うだけ。今はご家庭も持たれて、小学校の教諭をされているとのことでした。


仕事の話からご家庭の話、生徒の話、過去の話、他愛のない話まで…お店を変えて5時間くらい、話も尽きずに話し続けました。



僕は大学時代から、年の離れた方との付き合いが多いと思います。

海外に行って同世代の横の繋がりもゆるりとありますが、それ以上に大学時代に出会った、恩師ともいえる数多くの人たちとの付き合いは、何にも代えられないものだと思っています。

それは、年齢、年月が生み出す年の功であって、決して20代そこらの、自分たちのような青い人間が醸し出すことのできない深みを皆さん持たれています。


年齢層も、5、6年くらい上の、高校や大学では決して関われない人たちから、一回りほど違う30代後半の方、そして不惑を過ぎた方。(あ、でもサラリーマンの方との付き合いはないです。フリーランスか経営者か、今回のように教師か。偏りはあります。笑)

そんな人たちの口から紡ぎだされる言葉の重みと深みは、決して同世代とつるんでいるだけではわからないものです。


そういう人たちと話していると、不安は少し溶かされますし、前を向いて歩いていこうと思える。


そして、自分が同じような年齢を迎えて立場が変わったら、後代に同じようなことを還元していきたい。そんな人間になりたい。

2014年2月15日土曜日

壮絶な熱気!台北のコミックマーケットに参戦してきました!

数日前から、台湾入りしています。

高雄から入りぐるっと島を一周し、高雄から出て行くというルートなのですが、今回の一番の渡航の目的は、台北で今日明日と行われるコミックマーケット(以下「コミケ」)「ファンシーフロンティア」というイベントに足を運ぶ、というものでした。

知り合いの経営者の方が参加されるということで、僕も航空券を合わせて取り、実際に参加してきました。



◎人、人、人!とにかくすごい人の集まり!

実は今まで、コミケというものに参加したことはありませんでした。

今回も足を運ぶ前までは、何も考えておらず、アーティストのコンサートのように人が集まって、お祭りのように騒ぐんだろうな、というくらいのものしか想定していませんでした。


それが、いざ会場についてみると…


ものすごい人の数でした!


どこまでも続く列。


入り口(会場)が二つあって、道の右手と左手で列が分かれているのですが、この写真を撮った時点で、会場の敷地をはるかに超えて長蛇の列となっていました…

列に加わってから1時間ほど、ずっと二人で話をしていましたが、一人で来ていたら心が折れていたかもしれません…


入場券はこちら。200台湾ドルを払って冊子を買い、そのなかに付いている入場証明書なるものを入り口で手渡します。


ど直球の萌え勝負!僕は全く興味がないのですが、確かにこういう表紙だと多くの人の心に刺さるものがあるのかもしれません。



入り口付近のコスプレ集団。僕はこの世界に疎いので、まったくわかりません。知り合いの経営者の方は、さすが仕事で関わっておられるからなのか、口から出てくる単語がすごいです…。なんでも首を突っ込んで本気でやれば、これだけ楽しいものなんですね。



会場内の様子。東京の通勤ラッシュなんて比べ物になりません。おそらく人生で一番人口密度の高い場所にいた時間でした。





アニメの力はすごい!!




アイドルのコンサート。一部熱烈なファンがいて、盛り上がりがすごかったです…


こちらもコスプレ。もはや仮面もかぶっていますw


会場最上階からコンサート会場付近を俯瞰。いやはや、参加者の一途さと熱気には参りました。


この会場は大学の体育館のようなのですが、一番上から休憩しながら見るのが一番楽しかったですw

◎アニメ・マンガの力を実感

僕は小さい頃も全くアニメやマンガを目にしておらず、いわゆる「萌え」系のコンテンツにも興味がないのですが、今回このようなイベントに始めて参加をして、アニメやマンガといったコンテンツが持つ力の強さを改めて実感しました。

これらのコンテンツが持つ物語性、写実性の強さが印象的でした。日本のアニメ、マンガはドラマ以上にリアルを追求し、時には実際の土地を舞台にして「聖地巡礼」というツーリズムに発展している場合もありますが、心を動かすのは何も、日本人に限ったことではないのですね。

国や言語、人種を超えても心に訴えるものがあって、それを求めて一つに集まる、一つになる参加者の皆さんが持っているエネルギーの強さに圧倒されました。同人誌や各種グッズの即売やコンサートでの熱狂、長い長い列を長時間にわたって待つ皆さんの根気強さ…自分が長らく遠ざかっていた「世界」を、もう一度ここで見ることができました。
(ちなみに僕は鉄道オタクなので(※今はそれほどでもありませんが)、こういう「何かを一途に追いかける」経験はありますし、その素晴らしさもかつて体験したことがあります)

参加者が求めていたこと、期待していたことはもちろんそれぞれ異なるのでしょう。しかし、そんな人たちが一カ所に集まって共存している光景を見ると、草の根交流の大切さ、力強さも改めて認識することができました。


もちろん、どんなコンテンツやテーマが受けが良くて、売れているのか、人気があるのか、という仕事のヒントになることも多くありましたし、アニメーションの描写の細かさ(線の一つ一つが細かい!)も知ることができ、僕の中での気づきも多くあった、コミケへの参戦でした。

今回のコミケで、もう少しこの世界のことを知りたくなりました。今まで本当にアニメマンガを読んでこなかったので、一度DVDかマンガでも借りて、一日ずっと読んでみるのも楽しいんだと思います。

今日のイベントを教えて下さった経営者の方は、4月のニコニコ超会議にも参加されるようで、そのことも今日伺ったのですが、これは行ってみる価値があるかもしれません。

何はともあれ、自分の知らないディープな世界をまた一つ、知ることができました。これからの自分の人生に、どんな風な影響を与えるのか、楽しみです。


2014年2月11日火曜日

台湾人と高取城址に行ってきました

もう1ヶ月ほど前の話になるのですが、カウチサーフィンで台湾人を泊めた時に、一緒に奈良県中部(高市郡高取町)にある高取城址に行ってきました。


行った経緯と言えば、彼が家にきた時に「ここに行きたい」と、日本100名城か何かの本を見せてくれたのがきっかけでした。

高取城址は、おそらくそれほど有名ではなく(すぐ北に飛鳥地方の名所が多くあるので)、どちらかといえば玄人好みの場所なのですが、奈良県内の名城がこれだけだったからなのか、彼は興味を持っていたみたいです。

高取城址の詳しい説明はこちら


自宅からは車で1時間ほど、途中で昼食を取って90分くらいで到着しました。

最後の方は山道も山道で、すれ違うスペースもないような狭い道を延々と走り続けて到着しました。




この日は結構寒く、平地は曇や雨でしたが、さすがは山城、雪がちらついていました。



上ってきた道。中央の平地のすぐ奥が駐車場です。(もとい、道が終わっていて少し広い場所に車を置く、といった方が適切かもしれません)



「城址」なので、天守閣などの建物は全くありません。まるで兵庫県の竹田城のようです。




思った以上に範囲が広く、ちょっとやそっと歩いただけではとても見れそうにありません…。


ここは土台が残っていました。おそらく天守閣か何かがあったのでしょう。

城址までは登山道もあり、数時間かけて徒歩で移動することもできるようです。車でも行きは20分ほど、延々とセカンドギアで上り続けたような気がしましたが、とにかく急な坂道でした。この時期は閑散期でだれもいませんでしたが、休暇の時期になるともっと人が多くなるのだと思います。

実際、城址にいた時間は1時間弱で、その後下にある高取観光案内所「夢創館」に、本のスタンプを押すために行ってきました。





ここでは、コーヒーを頂きながら他の登山客と雑談。台湾人との通訳(?)は大変でした。普段英語を声に出さないので、瞬発力が徐々に弱っている気がしました・・・


一つ勉強になったのは、このお城、天守閣の設計書がないみたいで、復元はできないとのことらしいですね。台湾人も「復元できないの?」と聞いていましたが、残念ながら厳しいみたいです。

ほんの120年くらい前まではあったみたいなので、復元されたらそれは立派になるんだろうな、と思います。


ちなみに、実際に復元できないのなら…ということで、奈良産業大学がCGでお城を再現する、というプロジェクトを行っています。



このCG動画を案内所で見たのですが、今の城址の風景との違いにものすごく驚いたというか、「え、こんなに大きくて立派なお城だったの??」という、想像以上のスケールの大きさでした。(実物を見ていただけに、余計に。)

実際の姿が、木々が生い茂りまさに「跡」のような場所だったので、これだけ壮大なお城が復元されたら、周囲の町からも立派に見えるんだろうと思って、想像するだけでぐっときました。


僕も、高取城址は前々から気になっていて、外国人に誘われて初めて行くという、なんとも妙なきっかけになってしまいましたが、実際に行けて良かったです。海外との繋がりで、また新たに地元の良さを知ることができました。

すぐ北に明日香村があり、古墳やお寺などに足を運ぶ方が大半らしく、高取町はそれほど知名度は高くないようなのですが、これだけ素晴らしい資産があるのにもったない、というのが正直な感想です。

奈良の飛鳥地方にお越しの方は、是非高取城趾にも足をお運び下さい!



2014年2月8日土曜日

ポーランド人と興福寺の節分祭へ。

先週の話ですが、2月3日、奈良の興福寺で行われた節分祭に行ってきました。

ことの起こりは、東京にいる知人から。

知人:「今度、友達のポーランド人が日本に来るんですが、春日大社で行われる節分のイベントに行きたいって行っていて、たつやさん奈良にいるので案内してもらえませんか?」


僕:「え、ポーランド人??(←ここ大事!!) もちろんいくよ!2月3日だね、予定空けとくから、連絡よろしくね〜」


知人:「よかった、よろしくお願いします!」

(※実際はこんなトントン拍子に進んでいません)


というわけで、実は人生で初めて節分祭をきちんと見に行ってきました…(笑)


お会いしたのは、ポーランドのポズナンという町から来ている大学生の女の子。向こうでは舞台芸術と日本語を専攻しているみたいです。

事前のメールでは、なんでも春日大社での燈籠のイベントがあるらしく、それを見に行きたいということだったので、事前に簡単に情報収集。


調べてみると、どうやらこのイベントのようです。

http://www.kasugataisha.or.jp/calendar/winter02.html


イベント時間は18時から20時までなので、17時に合流して、早めにご飯を済ませ行事を見に行くことにしました。

駅前の観光案内所で詳しいパンフレットを集めていると、スタッフの方に「興福寺で豆まきをするから、こっちも行ったらいいんじゃないかな。春日大社のほうが時間に余裕があるから」と言われたので、結局そちらにいくことにしたのですが、これがあとあと大変なことに…

※興福寺のイベントはこちら。http://www.kohfukuji.com/event/festival/02.html



さて、17時に駅前で待ち合わせ、と言ったものの、細かい場所を伝えておらず、かつ電話番号も教えていなかったので、合流に10分程かかりました。

まずはご飯ということで、「何かお勧めのところへ」といわれ、迷ったあげくもちいどの商店街と三条通りの交差点にある麺闘庵にします。

ここは「巾着きつね」という、「あげの中にうどんをいれた」料理で有名です。(写真は撮り忘れました。)

ちなみにこのすぐ隣に、「高速餅つき」で観光客を魅了する中谷堂もあります。


二人とも一番人気の「巾着きつね」をたべながら、日本語英語、ポーランド語も駆使して話に花を咲かせます。ポーランド語は全然最近触っていなくて、簡単な単語も忘れていましたが、案外覚えているところは覚えていて安心しました。

それにしても、日本語を勉強している海外の人とよく会いますが、皆さんなんであんなにうまいんでしょうね…。半年とか1年で、ものすごくしゃべりますし、逆に日本人が英語どれだけ勉強してもしゃべれない、使えないっていうのはなぜなのか、ということも気になります。


(やっぱりポーランド人女性は美人)

一時間くらいして、18時半前に興福寺へ。19時からイベント開始らしいですが、18時半から読経が始まりました。




こんな読経が40分くらい続いて、ようやく節分行事です。


人がぞろぞろと出てきて、鬼退治の儀式が始まります。


鬼。さながら戦隊ヒーローものを見ている心地でした。

毘沙門天と大黒天が出てきたのですが、節分って七福神関係があるんですね。知りませんでした…。

この後豆まきがあり、袋に入っている豆が飛んできて皆さん必死に取るのですが…まさに戦争状態。あれは事故が起きても不思議じゃない光景でした。
(ついでにいうと、興福寺にあれだけ人が集まったのも初めて見ました。)


終わったのが19時半くらいで、やや早足で春日大社を目指します。


これが燈籠祭の燈籠みたいなのですが…


歩きながら撮ったのでブレブレ。

興福寺から春日大社まで、歩いて30分強。着いたら20時くらいでした。

で、実は本殿の一番奥にメインの燈籠はあったのですが、バスの出発時刻が21時15分なのもあって、あまり余裕がなくてそこまでみれませんでした。彼女には申し訳ないことをしたと思います。


すぐに引き返して、帰りは通ってきた時間の関係で閉鎖されて遠回りをし、結局バス乗り場に着いたのが21時前。JR奈良駅から春日大社までは遠いです…。

荷物を取って、ちょっとぎりぎりになってしまいましたが、彼女はここから東京に向かいました。


奈良にいながら、こういう行事に足を運ぶことはないので、今回はポーランドの縁もあり、素敵な体験をすることができました。カウチサーフィンの受け入れもそうですが、草の根でできることは地道に続けていきたいですね。

今回ポズナンの知り合いを奈良に招いて節分祭を見たので、この夏はポズナンに行って聖ヨハネ祭を見るフラグがたったかなと思います。笑


繋いで下さった皆さん、本当にありがとうございました!

2014年2月7日金曜日

僕がカウチサーフィンを使う5つの理由

カウチサーフィンって、日本でどのくらいのユーザーがいるのかよく知らないんですが、僕は旅行に行く際、また地元にいる際に時々使っていて、このサービスはとても好きなので、今回は紹介をできればと思います。

◎そもそもカウチサーフィンとは何か?
簡単にいうと、「宿泊場所の提供をするSNS」です。

「〇〇を訪れるのですが、どなたか泊めて頂けませんか?」
「〇〇に住んでいますが、スペースが余っているのでどなたか泊めて頂けませんか?」

これらのニーズのやりとりができるSNSサイトで、要するに「無料で泊めてもらう」「無料で泊めてあげる」ことができるサービスなのです。

(このサービスでは他にも、「〇〇に訪れるのですが一緒に食事しませんか?」や「〇〇でイベントするのですが、参加しませんか?」ということもできるのですが今回は割愛します。)

僕は今までカウチサーフィンを使って、10回くらい海外で泊めてもらい、6回くらい日本に来た外国人を泊めたのですが、なかなか面白いサービスだと思います。

今度も海外に行く際に使う予定ですが、使う中で分かったこのサービスの魅力を、以下にまとめます。


◎1、無料で泊めてもらうことができる
これが、一番のメリットだと思います。

旅行をすると必ず宿泊はつきもので、旅先の物価や宿泊方法にもよりますが、バックパックをしていてドミトリーを使っても、500円〜3,000円くらいは一泊かかってしまうものです。

それを、このサービスを使うと実質居候という形になり、宿泊費がタダになるわけなので、お金を大きく節約できます。


◎2、観光客ずれしていないスポットに足を運べる
カウチサーフィンで泊めてくれる人は、その町に住んでいる人です。

もちろん、人によってはその町の出身者以外にも、移住者や留学生など、様々な人がいますが、長かれ短かれその町に住んでいるので、例えば安いお店を知っていて、そこでご飯を食べることができたり、ガイドブックに載っていないスポットを教えてもらったりすることができます。

僕なんか、あまり観光客でごったがえしている場所は好きではないので、こういう方法でローカルなお店や場所を知ることが、今では旅の楽しみになっています。


◎3、(旅行者以外の)人と交流できる
これは、泊まる側でも泊める側でもそうですが、バックパッカー宿では出会えないような人と出逢うことができます。

その町で働いている人や、学生生活を送っている人もいるので、話の話題も、旅行者同士でありがちな旅先の情報交換や旅の自慢話だけではなく、その町の歴史や会う人のこれまでの人生経験、悩み等(さすがに、一回会うだけでは言えないこともありますが)、トピックが多岐にわたります。

ですから、例えば旅行だけじゃなく、ワーホリでの渡航で最初はカウチサーフィンをしながら、現地の求人情報や町の情報等を収集するこも可能です。
(僕は実践したことがないので確証はありませんが、「ディープな情報」が入ってきたり、人を紹介してもらったりと、可能性は高いと思われます)



◎4、静けさを体験できる
これは、主にバックパッカー宿を使う時に経験することですが、ヨーロッパとかにいくと、公共ルームで夜中まで酒を飲んで騒いでいる人がいたり、ドミトリーでもプライバシーがあまり保たれていないので、神経がすり減ってしまうことがあります。静けさを保つために良いホテルを使うと、それだけ出費がかさんでもしまうのですが、カウチサーフィンだと(ホストにもよりますが)プライバシーを確保してくれたり、ということはだいたいやってくれるので、リラックス、休息を十分に取れる、ということも大きなメリットでしょう。


◎5、お金以外の物を「交換」できる
カウチサーフィンは、どちらかといえば「物々交換(シェア)」という概念が根底にあります。
プロフィール欄にも「自分が提供できるもの、自分が知りたいもの」を書く欄があって、泊めてもらう側が料理を作ったり、一芸を披露したり、知識をシェアしたり…ということを通して、「何かと何かを(お金を介さずに)交換する」ということを実現できるようになっています。
(ただ、実際に泊まらせてもらうと「お客だから気にしないで」と言われて、だいたい自分はぼーっとしています。笑 これはこちらが泊めるときも一緒で、やっぱりお客さんに変に気を遣わせたくはない、ということがあります)



僕が最初にこのサービスを知ったのが、2011年の秋頃で、2012年の春頃から旅行の際に使い始めました。

ここで、幾つか気になる点や、使ってみた中で気づいた注意点を書きます。


1、変な人の家に泊められることはないのか?
カウチサーフィンに登録をすると、自分のプロフィールを詳しく書くことができ、ホストを探したりするときも、ここは検索をできます。
写真も載せることができるので、この欄をある程度しっかり書いていれば、そんな怪しい人に捕まったりすることはないでしょう。
また、このサービスは宿泊後にその人を「評価」することができるので、その欄を確認することで、その人の評価、人となりをより強力に確認することが可能です。
(最初、何の「評価」もない時が一番大変ですが、既にサービスを使っている友達があったことのあるホストを紹介してもらったりしましょう。)

ただ、女性の場合少しリスクが高くなるかもしれません。旅先で知り合った女性は、カウチサーフィンを使うか使わないかがはっきりと分かれていましたが、使っていた方も「女性としか会わない」というような、自分の中でのルールを決めて使っておられました。


2、英語はある程度使えるようにしておきましょう
このサイトは、今の所日本語対応はしていません。ですので、メールのやり取りはもちろんですが、サイトを閲覧するときも、ある程度英語を使えるにこしたことはありません。
(だいたいコミュニケーションは英語なので、英語ができることは最低条件かもしれません)



3、ホストを探す際は、1〜2週間くらい前から余裕を持って
人によって、このサービスのメールを確認する頻度も異なりますし、直前に「泊めて!」と言われても、スケジュールが埋まっていることもありますし、泊める側からすると迷惑極まりありません。

お金の節約等、魅力は沢山ありますが予めおよそのスケジュールを決めて、余裕を持って「泊めてもらえませんか」とメールしましょう。それが最低限のマナーです。


今回は本当にざっとしたまとめですが、実際にこれを使って世界一周をしていた方もいるので、使い方次第では自分の旅、あるいは(泊める側として)普段の生活を一層深いものにできるのではないでしょうか。


― ― ― ― ―

<「新しい生き方」の原点>
実はこのカウチサーフィンとの出会いは、僕が今興味を持っている「新しい生き方/働き方」について考えるきっかけになった、原体験に他なりません。

カウチサーフィンを知ったのが、大学4年の時で、初めて実際に使ったのが卒業時。この時は、6週間ヨーロッパを旅して、このカウチサーフィンを使ったり、知り合いの家に転がり込んだりして(あれは今思い返すと本当に厚かましくって、よくできたもんだと思う)、とにかくあまりおかねをかけずに、貧乏旅行をやっていました。(結局、それでも結構大きな額を使ってしまいましたが…)

当時、カウチサーフィンは殆ど失敗しました。連絡をするのが直前になったのがその原因ですが、それでも何人かはカウチサーフィンで泊めて頂きました。中には、メッセージを送った次の日に泊まるのに、朝メールを確認しても返事がなくて、バスで目的地に向かって宿は探そう、と思ってバスターミナルに着いたら、その人が迎えにきてくれていた、なんてこともありました。

この時に、「え、お金払わずに人の家に泊まることができるの?」と、本当に目からウロコが落ちたのです。

旅の費用はバカになりませんし、その中でも宿泊費は桁が大きいので、結構な額を占めます。それなのに、このサービスを使うと、見知らぬ人の家に泊めてもらえて、いろいろ話もできて、情報ももらえて、繋がりができて…なんて、当時の僕には天変地異のような驚きでした。仕事を始めたら、給料からお金をやりくりして、資金を作って旅をする、という、ごくありふれた思考しかしていなかったので、「お金を介さない」ということがとても新鮮で、かつ強烈だったのです。

<お金を介さずにシェアしよう>
上にも書きましたが、カウチサーフィンの根底には「シェア」の概念があります。住居提供と何かを交換、という(半分建前ですが)理念のもとに、世界で同じような関心を持った人たちが、助け合う(相互扶助)精神を持って、旅人を支える。宿泊費はいりませんし、時には料理をごちそうしてくれたり、洗濯機を貸してくれたり、インターネットも使えたり…と、本当に、こちらからするとお金は殆どかかりません(厳密に言うと、向こうはお金を使って交易を行っている訳ですが)。

だからこの時、「あ、もしかしたらお金って、交換手段の一つでしかないんだ」と思って、ちょっと気が軽くなったんです。なかなか旅をすることはありませんが、こんなところで「お金を介さない」交換活動ができるなんて、僕にはすごく素晴らしいことに思えましたし、そこに少し、希望を見いだしたのでした。

もちろん、お金があるに越したことはないのですが、カウチサーフィンを使ったことがきっかけで、「じゃあ、お金を介さずに物々交換ができる時ってあるんじゃないか?」「いや、自分たちで作り出せる物もあるのかもしれない」ということにも関心が出てきて、今に至ります。
(実際の所、自分はまだまだそこまで行動できていません。)



<やっぱり世界は、人である>
僕はモノよりヒトに興味があるタイプの人間なのですが、やっぱり世界は人が作っていて、その人たちが支えあっているんだなあ、と思います。
一昔前は「無縁社会」なんて暗い言葉が流行っていましたが、カウチサーフィンを使っていると、世界にはこんなにも、人に対して好意的に応対をしてくれる人たちがいるんだ、ということに気づかざるを得ません。

別に、人が全てだとは思いませんし、逆にお金が全てだとも思いませんが、こんな風に、力を必要としている人に、少し余っている力をシェアすることで、お金を介さずに豊かな交易活動ができるなんて、世の中まんざら捨てたもんじゃありません。

人との出会いは最高のエンターテイメント。豊かな営みを行っている世界に、あなたも足を踏み入れてみませんか。

(「交易活動」という言葉は、坂口恭平さん「独立国家の作り方」に出てきた本ですので、興味のある方はそちらもどうぞ。)

ボクの還る場所

今日、実に、実に久しぶりにBUMP OF CHICKENの音楽を聴いた。

最近は、アイスランドのバンド、OF MONSTERS AND MENにはまっていて、こればっかり聞いていたのだけど、本当に久しぶりに、BUMPを聞いた。


今日聞いたのはCOSMONAUTの中の数曲なのだけど、その中のHAPPYという曲の中に、こんな一節がある。


"続きを進む恐怖の途中 続きがくれる勇気にも出会う
無くした後に残された 愛しい空っぽを抱きしめて"


このフレーズは知っていたのだけど、今日改めて聞くと、不覚にも泣き崩れてしまった。




◎僕がBUMPを好きなワケ

僕はあまり、音楽は聴かない方だと思う。

小さい頃は親の聞いている、ラジオから流れてくるようなフォークソングしか聴いたことがなかったし、その後はThe Carpenters やCarol Kingといった、これまた少し古めの洋楽を聴いた時期があって、邦楽も少しは聴くが、カラオケでもそんなに歌えるグループはいないし、世間では有名、人気な曲も多くは知らない方だと思う。


そんな中で、恐らくBUMPは自分が初めてのめり込んだバンドだった。

しかも、どっぷりとつかったのは2009年くらいだから、結構遅いほうだと思う。
(アルバムでいうと、Orbital Periodくらいか?)


あの時は大学の一年生で、いろいろとうまく行かないことがあって、たぶん人生で初めてどん底を経験した時期だと思うのだけど(けれど、不思議なことに時間が経てば、そんな時のことも過去の思い出になっている)、そんな時に聴いたのが、確かBUMPの「花の名」だったと思うのだ。


とにかく、その歌詞が身体全体に沁みわたった。

他にも「supernova」や「sailing day」など、まだまだ知っている曲は多くはなかったけれど、とにかくその歌の、歌詞の力強さに力をもらったのを覚えている。
おそらく初めて、自分が「音楽の力」のようなものを体験したのがBUMPだったのだ。


その後は一通り曲は聴いて、最近の物はわからないけど、過去の歌はだいたい歌詞も覚えるようになって、本当にいい曲を沢山世に出しているバンドだと、僕は思っている。

では、何がそんなに良いのかというと、僕はこう思っている。

「一人一人が思い思いに解釈をできるような、コンテクスト性の高い歌詞を紡ぎだしているという魅力」


少し難しい言葉を使っているけど、要するに言葉の深みが他のバンドと違うような気がする、ということだ。(あまり聴かないから断定はできないけど)


これは、なかなか上手く言葉で説明できないので、是非このブログをご覧になった皆さんは、一度BUMPを聴いて頂きたいのだが、歌を聴いていると、自分の経験や思い出に、すっと歌詞が入っていくような気がするの。

それは、過去の人間関係や挫折、仕事、挑戦、恋愛、旅、価値観、哲学…と、聞き手が持っている、それぞれの異なる物を上手く掬い上げているようなフレーズが使われている、ということだ。
(特に最近のアルバムには、そういう歌が多い。)


もっというと、上っ面じゃない、人の心の奥深い所を撫でて、時にはえぐるようなフレーズが使われていることも、僕がBUMPを好きな理由だと思う。


これも、実際にBUMPを聴いて頂くのが良いのだが、「時空かくれんぼ」とか「ラフメイカー」とか「ダイナマイト」とか、「花の名」もそうですが、人の深層心理というか、深いところを表現している。

よく恋愛ソングにある「好き」とか「愛している」とか、そういうドストレートな言葉を全く使わずに、言葉に含みがあって、一人一人が内省をして、噛み締めることができる、という、そんな歌を彼らは作っている。

(恋愛ソングを歌う人たちは沢山いるのだけど、やっぱりBUMPの(というか、藤原さんの)歌詞に込められた力強さ、魂の強さは別格だと思う。個人的には、これだけの言葉を紡ぎだせる藤原さんがされた経験はどんなものだったのか、ということにとても興味がある。傍目からみたら少々気持悪いが。笑)

それだから、時期を変えて同じ曲を聴くと、以前とは違った解釈やイメージを持ったり、現在の自分の状況になぞらえたりすることができて、自分でも歌に対して新しい発見をしたり、「ああ、昔はこんな風に考えていたんだな」と思ったりすることもしばしばある。


そして、そんな風にBUMPを聴くことができると、なぜか不思議と安心してしまうのだ。


別にBUMP以外のバンドでも、同じようなことになる場合もあるのかもしれないけど、やっぱりBUMPは自分の中で格別。
(そういえば、以前はミスチルも聴いていたけど、言葉が軽い(チャラい)ためか、最近は聴いていない。この違いはなんなんだろう。)


◎ボクが還ることのできる場所

そんなBUMPは僕にとって、「いつでも還ることのできる」場所なんだと思う。

別に、長いこと聴かないことがあってもいい。(僕は、一つのバンドにハマっては冷めて、の繰り返しが多いタイプだ。)

でも、その期間がどれだけ長くても、ふとした機会にBUMPを聴くと、どこか懐かしい感覚、そして時間が経っても変わらないもの、彼らが持っている本質をえぐる言葉に気づくことが出て、安心ができる。

実際に今日、聴いた後では心が驚く程軽くなった。


最近うすうすと思うのだが、たぶん自分は躁鬱のようなサイクルを持っていて(人間誰しも持っている物かもしれないのだけど)、特にエネルギーが外に出て行く時と、内側に向かうときの善し悪しの差が最近ははっきりしている。(以前はこんなことに気づかなかったんだけど、何でだろう?単純に年を取ったのか?)

僕だって、エネルギーを使って次々とやりこなして行くときもあれば、それを使い果たして充電しなければならない時もあるのだけど、BUMPはそのどっちの時にでも、「還っておいでよ」と言ってくれる存在なんだと思う。


僕自身、もう少し辛抱の時期が続くと思うけれど、しんどくなったら立ち止まって、何度でもBUMPを聞くようにしよう。言葉の縁に心を置いて。

2014年2月2日日曜日

しかるべき時、しかるべき人。

今日は大学時代の友人や後輩達と過ごした一日でした。


実はここ数日、仕事でいろいろと上手く行かない状態で(ダメ出しを喰らったり、売掛金の回収が上手く行っていなかったり…)、結構精神的に辛い日々が続いていたのですが、そんな悩みが全部吹っ飛んだ一日でした。



人と会って新しく動き出すことがあったり、新しい発見があったり、悩みを吐き出すことができたりすることがあります。

一人で仕事をしているので、仕事の愚痴を言えない環境にあり、かつ友人や知人にはそういうことはできるだけ吐きたくない、というのもあって(説明するのが面倒というのもあります)、なかなか精神的に辛い時もあるのですが、それでも今日のような機会があると、そんなものはどこかに一旦投げ捨てて、生きる上でもっともっと大事な、本質的なことに気づくことができる、そんな気がします。


幸いなことに、仕事でもプライベートでも、お声をかけて頂くことが多くなりました。


あの時にあのことをしていたから、あんな経験をしていたから糸が紡がれて、今こんな状態になっていたり、仕事に関わらせて頂いたり、ということも、振り返ってみればあることがあります。


そんなことに気づくと、改めて自分は人に生かされているんだな、ということが分かります。

人あってこその、自分。


人の姿を見るからこそ、人に自分の姿が映るからこそ、自分も生きていかねば、と思うのです。


生きねば。