仕事や日常生活で、どうやってもうまくいかない時はあえて「待ってみる」ということも、一つの解決策だと思います。
これは「時間が解決してくれる」ということとも少しは関係あると思いますが、もっと突っ込んで言えば「流れが変わるのを待つ」ということでもあります。
例えば、自分が将来したいことがよく分からなかったり、新しく取組みたいことがわからなかったりすることがあるとします。こういう時は、(特に前者の場合)あれこれ考えすぎて、どんどんぬかるみにはまっていってしまうことが往々にしてあります。ですが、こんな時は歩みを止めて、一度深く呼吸をしながら外的環境が動くのを待つ、ということも、一つの手段(勝負術)となると思うのです。
この考えは、「世の中は自分のものじゃない」ということを知ることから始まります。過去記事の「仕事の本質は頼まれごと」でも書いたように、自分から動いてもうまく行かないことは沢山ありますし、逆に(仕事以外のことでも良いのですが)誰かからオファーや提案をもらったりすることも、たくさんあるのです。
これは「待つ」というよりもタイミングの問題かもしれないのですが、要するに「自分から動いてもうまく行かない時があって、そんな時は外部からの働きかけ(声をかけてもらうこと)を待つ」ということをすれば良いのです。
「すれば良いのです」なんて偉そうに書きましたが、僕も今までは、これに全然気がつきませんでした。それに、今でも堂々と「待てる」かといえば、必ずしもそうではありません。
ですが、今までのターニングポイントを振り返ってみると、自分から動いても何も変わらない時には、なぜか他の人(友人や仕事仲間、海外の知り合いなど)から声をかけてもらうことが多くありました。厳密に言うと、ただ待つのではなく、自分のすべきことをした上で声かけを「待つ」ということになると思うのですが、この「待つ」ということが感覚的に分かって、実践できるようになると、随分日常も変わります。
もともと僕がこの「待つ」という感覚を覚えたのは、将棋をよく指していた頃(高校〜大学初め)でした。
将棋というのは、自分と相手が交互に駒を動かしていって、最後は相手の王将を討ち取るゲームです。一般的には、陣形を整備→攻め合い→寄せあい→勝敗という流れなのですが、将棋の一局(一回のゲーム)の中でも、この「待つ」という勝負術は往々にして出てくるのです。
例えばお互いに陣形整備をして、だんだんと指す手がなくなってくるとします。陣形整備では、どれだけ自分の王将の守りを固めて、かつ攻めの体制を築くかが重要になってくるのですが、時にはお互いに陣形を整えすぎて、だんだんと動かす駒がなくなってくる時(飽和状態)があります。
こんな時は、駒組が頂点に達した時に攻め始めるのですが、あえて「待つ」ということも、とても高度なワザですがあるのです。自分が一手待つ→相手には指す手がなく、無理矢理動くしかない→相手に攻めてもらう→手に乗って自分の駒も動かして攻める、というのが大まかな流れですが、「自分から動いてもいい時に、あえてじっと一手待つ」ということが、勝負術の一つです。
他には、攻め合いをする中でどうも自分の方が芳しくない、不利に陥ってしまったというときにも、容易に土俵を割らずに、チャンスをうかがいながら「待つ」ということもあります。相手が攻かかってくる時に、その攻めを耐えつつ相手にもプレッシャーをかける指し方をしたり、ただ耐えるだけではなく嫌みを付けながら「待つ」という方法も、立派な勝負術として存在します。将棋は、取った駒を何度も使えるゲームですから、相手が駒を渡して攻めたらその駒を使って反撃ができる体制を作っておく、ですとか、正解と思われる手が幾つもある(迷いやすい)局面を作り出して、相手のミスを待つ、というような方法も含まれます。
僕も、将棋はそこまで読みが強くなく、不利になることが多々あったので、容易に土俵を割らないように、辛抱強く、粘り強くさすことを心がけていました。そうすると、耐えることもそれほど厭わなくなり、どうやったら相手のミスを誘えるか、複雑な局面に誘導できるかということも考えながら、チャンス(相手のミス)を「待つ」ことができるようになり、勝率も良くなりました。
将棋での「待ち」というのは、要するに「相手の力を利用する」ということですが、これはたぶん、現実世界にもあてはまると思います。自分でなんとかしようと思ってもどうにもならないとき、上手く回っていかない時は、あえて「待って」みる。相手の力もうまく利用しつつ、自分にとって理想の局面に誘導することも可能だと思っています。
ただ、現実世界において「待つ」ということは容易ならないことでもあります。例えば、一年間浪人をして大学(や他の資格の取得)を目指すことができるのか。今手元にある資源や機会を捨ててでも、更に良い資源、機会を手に入れることができるのか。現実世界では、先が読めない(読みにくい)だけに、判断が難しいことだと思います。
結局のところ、「待つ」というのは「現在より未来の方が(少しでも)良いものである(良いものになる)」という、いわゆる「楽観論」を持っている人ができることなのだと思います。今しんどい勉強をしていても、将来実を結ぶ、ということであったり、最近はいいことが起こっていないけれど、明日には良いことが起こる、というような心持ちができるというようなことであったり。
僕も、あまり「待つ」ことが得意ではないので(最近はようやくできるようになりましたが、数年前まではまったくもって無理だった)、なかなか「今を辛抱」することができない人間なのですが、それでもどうあがいてもうまく行かない時はうまく行かない、ということを悟って、その上でよりよい好機を手に入れられることができるようになりたいです。
もちろん、待ったからといって現在より未来の方が良くなる保証なんてゼロに等しい訳ですが、将棋界のかつての天才、大山康晴(故人)の名言に「一回目のチャンスは見逃す」というのがあるように、一度目のチャンスは逃してでもじっと「待っ」たうえで、更なるよい機会を手に入れるだけの辛抱強さと楽観思考を兼ね備えていたい、と思っています。
これは「時間が解決してくれる」ということとも少しは関係あると思いますが、もっと突っ込んで言えば「流れが変わるのを待つ」ということでもあります。
例えば、自分が将来したいことがよく分からなかったり、新しく取組みたいことがわからなかったりすることがあるとします。こういう時は、(特に前者の場合)あれこれ考えすぎて、どんどんぬかるみにはまっていってしまうことが往々にしてあります。ですが、こんな時は歩みを止めて、一度深く呼吸をしながら外的環境が動くのを待つ、ということも、一つの手段(勝負術)となると思うのです。
この考えは、「世の中は自分のものじゃない」ということを知ることから始まります。過去記事の「仕事の本質は頼まれごと」でも書いたように、自分から動いてもうまく行かないことは沢山ありますし、逆に(仕事以外のことでも良いのですが)誰かからオファーや提案をもらったりすることも、たくさんあるのです。
これは「待つ」というよりもタイミングの問題かもしれないのですが、要するに「自分から動いてもうまく行かない時があって、そんな時は外部からの働きかけ(声をかけてもらうこと)を待つ」ということをすれば良いのです。
「すれば良いのです」なんて偉そうに書きましたが、僕も今までは、これに全然気がつきませんでした。それに、今でも堂々と「待てる」かといえば、必ずしもそうではありません。
ですが、今までのターニングポイントを振り返ってみると、自分から動いても何も変わらない時には、なぜか他の人(友人や仕事仲間、海外の知り合いなど)から声をかけてもらうことが多くありました。厳密に言うと、ただ待つのではなく、自分のすべきことをした上で声かけを「待つ」ということになると思うのですが、この「待つ」ということが感覚的に分かって、実践できるようになると、随分日常も変わります。
もともと僕がこの「待つ」という感覚を覚えたのは、将棋をよく指していた頃(高校〜大学初め)でした。
将棋というのは、自分と相手が交互に駒を動かしていって、最後は相手の王将を討ち取るゲームです。一般的には、陣形を整備→攻め合い→寄せあい→勝敗という流れなのですが、将棋の一局(一回のゲーム)の中でも、この「待つ」という勝負術は往々にして出てくるのです。
例えばお互いに陣形整備をして、だんだんと指す手がなくなってくるとします。陣形整備では、どれだけ自分の王将の守りを固めて、かつ攻めの体制を築くかが重要になってくるのですが、時にはお互いに陣形を整えすぎて、だんだんと動かす駒がなくなってくる時(飽和状態)があります。
こんな時は、駒組が頂点に達した時に攻め始めるのですが、あえて「待つ」ということも、とても高度なワザですがあるのです。自分が一手待つ→相手には指す手がなく、無理矢理動くしかない→相手に攻めてもらう→手に乗って自分の駒も動かして攻める、というのが大まかな流れですが、「自分から動いてもいい時に、あえてじっと一手待つ」ということが、勝負術の一つです。
他には、攻め合いをする中でどうも自分の方が芳しくない、不利に陥ってしまったというときにも、容易に土俵を割らずに、チャンスをうかがいながら「待つ」ということもあります。相手が攻かかってくる時に、その攻めを耐えつつ相手にもプレッシャーをかける指し方をしたり、ただ耐えるだけではなく嫌みを付けながら「待つ」という方法も、立派な勝負術として存在します。将棋は、取った駒を何度も使えるゲームですから、相手が駒を渡して攻めたらその駒を使って反撃ができる体制を作っておく、ですとか、正解と思われる手が幾つもある(迷いやすい)局面を作り出して、相手のミスを待つ、というような方法も含まれます。
僕も、将棋はそこまで読みが強くなく、不利になることが多々あったので、容易に土俵を割らないように、辛抱強く、粘り強くさすことを心がけていました。そうすると、耐えることもそれほど厭わなくなり、どうやったら相手のミスを誘えるか、複雑な局面に誘導できるかということも考えながら、チャンス(相手のミス)を「待つ」ことができるようになり、勝率も良くなりました。
将棋での「待ち」というのは、要するに「相手の力を利用する」ということですが、これはたぶん、現実世界にもあてはまると思います。自分でなんとかしようと思ってもどうにもならないとき、上手く回っていかない時は、あえて「待って」みる。相手の力もうまく利用しつつ、自分にとって理想の局面に誘導することも可能だと思っています。
ただ、現実世界において「待つ」ということは容易ならないことでもあります。例えば、一年間浪人をして大学(や他の資格の取得)を目指すことができるのか。今手元にある資源や機会を捨ててでも、更に良い資源、機会を手に入れることができるのか。現実世界では、先が読めない(読みにくい)だけに、判断が難しいことだと思います。
結局のところ、「待つ」というのは「現在より未来の方が(少しでも)良いものである(良いものになる)」という、いわゆる「楽観論」を持っている人ができることなのだと思います。今しんどい勉強をしていても、将来実を結ぶ、ということであったり、最近はいいことが起こっていないけれど、明日には良いことが起こる、というような心持ちができるというようなことであったり。
僕も、あまり「待つ」ことが得意ではないので(最近はようやくできるようになりましたが、数年前まではまったくもって無理だった)、なかなか「今を辛抱」することができない人間なのですが、それでもどうあがいてもうまく行かない時はうまく行かない、ということを悟って、その上でよりよい好機を手に入れられることができるようになりたいです。
もちろん、待ったからといって現在より未来の方が良くなる保証なんてゼロに等しい訳ですが、将棋界のかつての天才、大山康晴(故人)の名言に「一回目のチャンスは見逃す」というのがあるように、一度目のチャンスは逃してでもじっと「待っ」たうえで、更なるよい機会を手に入れるだけの辛抱強さと楽観思考を兼ね備えていたい、と思っています。
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