2013年11月26日火曜日

答えは「ない」のではなくて・・・

「気づいてない」だけだと思います。


最近は、自分にこういい聞かせています。


自分にとっての最適解は「ない」んじゃなくて、「気づいていない」だけなんだ、と。

今世の中にあるものが、必ず自分にとっての答えだというわけではないと思います。

だから、自分が知っている知識を総動員させれば、うまく組み合わさって出てくるかもしれない。

もしくは、ふとした瞬間に思いつくことも。


例えば、大阪から東京に行くのに、新幹線以外にも、飛行機もあるし夜行バスもあるし、昼間のバスもあるし、京都まで移動してから夜行バスに乗る、という手段だってあります。

空港も、関空もあれば伊丹もあるし、神戸もある。

サンライズ出雲・瀬戸だって動いている。

すぐに「ない」と決めつけてしまうのは簡単ですが、案外自分が気づいていないだけ、ということも多々あります。


だから、すぐに諦めずに、自分で調べて、考えるクセをつけていきたい。

2013年11月24日日曜日

まずは会社員として「スキル」と「人脈」を作ってから独立せよ、というのは結構アヤシイ

将来的に独立や起業を考えている人が、「まずは企業に入ってスキルと人脈を作ってから独立しよう」と考えたり、そういうアドバイスをする人が多いようですが、この論理は結構曖昧で、アテにならないと思っています。
(早速余談ですが、僕はこの「会社に入る」という表現が、どうも好きではありません)


これは、自分の僅かな会社員経験と、今フリーランスとして仕事をしている経験から思うことです。

①会社員の「スキル」は、全能的ではない

よく言う「スキル」という言葉は、案外曖昧な言葉であると思うし、実際そうであると思います。

例えば、今会社員として、広告の営業を行っているとします。こういう仕事で必要とされる「スキル」は、クライアントに対して課題を聞いて、内容を提案し、解決策を提示する、という流れに沿ったものだと考えることができるでしょう。

「広告」といっても、求人広告やプロモーションなど、いろんな広告があるために一概には言えませんが、いずれにしても、
・クライアントが抱えている課題がどこかにあって、それを聞き出す必要がまずあり
・それに対して、同業他社の成功事例を調べたり、業界の情報を調べたりして、具体的な提案、解決策を提示し、
・実際に広告を作り、効果を出す
というような能力が(一人でするかどうかは別として)求められることは、殆ど事実だと思います。

問題は、この一連の流れで何を「スキル」というのか、ということです。
クライアントを探してくるのがスキルかもしれないし、どんな課題を抱えているのかを聞き出すのがスキルだともいえるし、調査能力はスキルのようであるし、そこから具体的な提案を行って、実際に効果を出す、というのも、スキルだと言えそうです。

もし仮に、これら全てを自分で行って「スキル」が身に付いたとしましょう。これはこれで、自分の実績となり(厳密に言うと「会社」の実績ですが)、自信がつくのは間違いありません。しかし、その「スキル」が、転職や独立をした時に全てそそまま役に立つのかといえば、絶対にそうではないでしょう。

転職の場合だと、同業界に転職するだけが選択肢ではありません。BtoBの仕事だったのがBtoCに変わることだってあるでしょうし、広告業界から人材業界や旅行業界に身を移すことだってあるでしょう。

独立する場合も、会社員時代に関わった業種と、自分が独立してやりたい職種、業種が異なる場合だって多々あるでしょうし、経営者となると、「現場」だけではなくお金のやりくりや人材の育成等もしなければならなくなるでしょうから、やはり会社員時代に身につけた「スキル」だけでは、絶対にカバーできない部分が多くあると思います。


(ただし、この「独立するためのスキル」というのが、もっと専門的なものの場合は、もう少し整合性がとれるかもしれません。例えば翻訳会社で経験を積んだ後でフリーランス翻訳として独立したり、経理・法律などを仕事とするために税理士事務所や法律事務所で働く、もしくはプログラム、ITエンジニアリングの経験をそういう会社で積む、といった風に。ただ、それでもチームとして行うことと、身一本でする際に必要なものは、異なると思います)

僕の知り合いの方で、40歳を過ぎてから会社員を辞め、織物の世界に転身された方がおられますが、織物の「スキル」は退職後に勉強されていました。これは極端な例ですが、会社員の「スキル」なんて、案外環境を変えると通用しなかったりするものなのかもしれません。



②法人の繋がりを個人の人脈と勘違いしてはいけない

よく、自分の人脈自慢?をされている人がいますが、組織の一員として仕事をしている場合、「人脈」は決して個人のものではなく、会社の資産だと考えるべきだと思います。

例えば、僕がどこかの大きな企業の、カスタマーサポートで働いているとしましょう。
もしくは、コンシェルジュでもいいです。

顧客としては、電話をして相談をした際に、サポートがとても良い対応をしてくれたとして、その時に思うのは「〇〇社のサポートの対応はすごく良い」というものでしょう。

もしくは、コンシェルジュの場合でも「〇〇ホテル△△店のコンシェルジュは、すごく良かった」と、なると思います。(この場合は、まだ名前は覚えているかもしれませんが)

ただ、いずれの場合も、それが「すごい」のは、企業(看板)なわけです。

Appleの製品だから、発売前から並んで買う、という人は沢山いますが、これが「藪内パソコン会社」のパソコンだと、誰も並ばないわけです(笑)

会社に勤める、ということは「会社の看板(ブランド)を借りて仕事をする」ということに他ならない訳ですから、そこで出会う人や、仕事をする仲間、クライアントというのは、よくも悪くも「看板で付き合っている」ということを、意識しておくべきではないでしょうか。
(立ち上げほやほやのベンチャー等は、ゼロのところからブランドを立ち上げる、という意味では必ずしもそうではないかもしれません)

もっというと、この「スキル」と「人脈」というのは密接に繋がっていて、特に「スキル」がある=解決策を持っている、と見なすと、そういう場所には人が集まります。ただ、その「スキル」も個人のものというよりは「会社」の資産であったりするわけで、結局「会社員」というのは、会社の看板を借りてスキルを習得し、人と付き合っているもので、特にネットワークに関しては、看板を下ろしたらなかなかついてくるものではないと思います。


◎起業したければ、すればいい

結局のところ、「会社員として「スキル」と「人脈」を作ってから〜」なんていうのは、いい訳だと思うんです。

もちろん、本当にそうしようと思って、まず会社員をしてから独立し、成績・実績を残している人もいるのでしょうが、大半の人は「生活資金が必要」とか、なんとかかんとかの理由を適当にすり替えて、生きているだけです。

自分も、半分強制的に今の環境に身を置いたわけですが、腹を決めて進まないと見えて来ないことがあることが分かりました。

何をするにしても、最初はゼロなんです。スキルもなければクライアントもいない。実績もない。誰だってそうです。

だから、ゼロから始めるしかないんです。それを変に理由をすり替えて生きていると、最終的に目標を手段がすり替わって人生を終えるか、振り子の針が戻されても何も手にしていない自分に驚くのが関の山でしょう。

あ、でも、もちろん会社員をしている中でできた知り合いが、一生のビジネスパートナーになることもあると思いますし、習得したスキルが身を助けることもあると思います。ただ、それは絶対的な保障がないということと、スティーブ・ジョブズが"connecting the dots"と表現したように、最初から先を見て、打算的に行えることではない、ということです。

僕は、人の生き方にあれこれ口出しする権利はありませんし、その人が選んだ道だから、それでいいとは思います。(結局、潜在意識は顕在化するのです。)

ただ、相手を尊重するということと、「それでも自分はこう思う」と主張をすることは全く別だと思っているので、今回はこんなことを言葉にしてみました。


2013年11月21日木曜日

「稼ぐ」から「儲ける」へ

最近思うんですが、「稼ぐ」ことより「儲ける」ことのほうが大事なんだなー、と。

「稼ぐ」というのは、お金を手に入れる、ということですが、「儲ける」というのは、稼いだ額から経費をさっ引いて、どれだけ「手元に残るのか」ということ。

これか結構大事。


単純にいえば、10万円の仕事をしても9万円が経費(交通費とか)で出て行けば、実質的な儲けは1万円。


逆に、3万円の仕事をして、経費が5000円だったら、儲けは2万5千円。


「儲けるって大事だな」とおもうのは、単純に「お金があれば選択肢が増える」ということに、ようやく気づいたから。


二年前くらいに知り合って、今でもお世話になっている方に以前、手紙を頂いたことがあるんですが、そこにはこんな風に書かれていました。


「お金を稼ぐ」ということは大切なことです。何かを成し遂げるには、あったほうがいい場面が多い。だからいい意味で、欲を出して勝ちに行って下さい。


この手紙には「稼ぐ」と言う言葉が書かれていたんですが、つまりは「何かをするための手段としてお金が役に立つことが多い」ってことなんですね。

フリーをしていて、ようやくこの「儲ける」という感覚が、言葉ではなく実感として分かってきました。


昨日の記事では明文化していないんですが、僕は「お金で買えないものがある」というのは事実だと思っていますが、それは「お金を払って買う経験をしないと一生分からない」ことだと思います。

事業をするにも、旅をするにも、人とつきあうにも、「良いもの」を知るためにも、お金は必要なときが多い。


だから、これからは「負けにくい手」も指しつつ、時には見極めて「勝ちに行く手」も指していこうと、思います。

2013年11月19日火曜日

お金がないと嘆く人の大半は、単に価値を知らないだけ

仕事柄、いろいろな翻訳案件の相談を頂くことが多いのですが、具体的に交渉を進めていくと、予算の関係などで料金が変わったり、時には「お金がないので」なんて露骨に言われて、条件が合わなくなってキャンセル、なんてことがあります。


自分もかつて、常識的に考えるとありえないくらい安い料金で仕事をしたときもあって、その時の教訓で調査も行って、今は「これくらいの値段で」と決めているのですが、それでも発注側としては、なるべくかかるコストを減らしたいんでしょう、時にはこちらが想定していないような料金を提示されることもあります。

(特にクラウドソーシングサイトでは、顕著かと思います。)


もちろん仕事の受注・発注に限ったことではないのですが、どうも我々はえてして「お金がない」ことを理由に、(声には出さないかもしれないけど)旅行に行かなかったり、友人との付き合いを断ったり、ということをしてしまいがちです。

(私もそんなことは結構あります。笑)


でも、よくよく考えてみると、本当に「お金がない」のか?実は私たちって、「使うお金はある程度あるけど、こんなことにこれだけ使っていいの?」って思っていることを、表面的に「お金がない」って言い換えているだけ何じゃないの?なんて、最近思うようになった訳です。

平たくいうと、「価値を分かっていない。」

(私も偉そうに言えたタチではない、ということは予めお断りしておきます。笑)

価値を理解する

価値には「交換価値」と「使用価値」の二種類がありますが、ここでいう価値はどちらかというと「交換価値」の意味合いが強いです。つまり「これだけのお金を払って、これだけのものが手に入るのは、価値があるのか、ないのか、どうなのか!?」ということを、私たちってあまり、分かっていないんじゃないか、ということなんです。

例えば、今私が抱えている問題が次のようにあったとします。

「仕事用の自分のウェブサイトを持ちたいけど、自分では作れる自信がない。けれどいろいろ調べてみると、作ってもらうには数万から数十万かかるし、そんなお金一月分の収入くらいになってしまうし、うーん、ここまでお金を払えるのか…」

実際に、半年くらい前はこれで悩んでいました(笑)

で、当時は自分でWordpressをインストールして自作した訳ですが、これは確かに、収入的な問題もありましたが、それ以上に「HP一つ作ってもらうのに、これだけのお金は払えないな」という「交換価値」を認めなかった、ということもありました。
(実際に、銀行の口座からお金を引き下ろしたらその費用は工面できました。)

でもこれが、例えば「HPを作ることによって確実に認知度は高まって、仕事依頼と収入が増加する」という見込みが高ければ、どうでしょうか?

数万円の投資は結構痛いけど、十分な料金で、自分の納得いくHPを作ってもらって、SEO対策もしてもらって、「ある程度元が取れる」のなら、これは十分にペイできるものではあるかと思います。

もちろん、それでも自分で作ることは可能ですが、細かい機能までは付けられなかったり、納得いくデザインじゃなかったり、ということが起こる可能性もあるでしょうし、もっというなら、その製作にかける時間は、本業の研鑽に当てることだって、できるわけです。

これはつまり、自分が交換価値を認めているということです。


で、今回はすこしカッとくるようなタイトルなんですが、大概の人って、ある程度のお金は持っているはずですし、その中で「お金がない」って口にするのは、実は「お金とその対象の交換価値が分かっていないです」ってことだと思うんですよね。


この前も、知り合った企業からHPの翻訳の見積もり依頼が来たので、綿密に計算をして(大きな額になりましたが)きちんと見積書を出しました。

数字が数字なので、先方も驚いたのかもしれません。それ以来返事はないですが、もしかしたら「この翻訳にこれだけのお金は高い」と思ったのかもしれませんね。

でも逆に言うと、HPって会社の看板であるわけです。それを英語にして、全世界の人に見てもらうのだと思えば、認知度も上がって海外でのブランディングができるかもしれない。そこまでを含めて考えると、この額は払えない額なのか。仮にHP内の文言を当面変えないのだとすれば、数年間、看板をこの額で英語にしてもらえるのであれば、それって逆に十分にペイできるのではないか?

もちろん、それだけのお金を頂くということは、こちらもそれだけの仕事をする必要は当然あるのですが、こんなことを思うようになったのは、最近仕事をしていてあまりにも「安かろう、悪かろう」が多すぎることに、気づいたからなんです。

今では「スピード翻訳」なんてものも沢山出てきて、「安い料金で、早く」翻訳する会社も多いみたいなんですが、今担当させてもらっている某案件の参照資料にあり得ないようなミスが多数見られて、「ああ、安かろう、悪かろうなんだな」ということに気づき始めています。
(それは過去の参照資料で、某HPにもきちんと掲載されて一般公開されているものなんですが、よくよく見てみると、もう誤字はあるわ入力ミスはあるわ、イライラが募って収まらないです。笑)

もちろん、この翻訳がスピードをウリにする翻訳会社によって行われたのかどうかは知る由がありませんが、訳した文章にも統一性が見られず(結構長い文章です)、誤訳の程度も幼稚なミスが多数見られたので、翻訳者の質も良くないだろうし、それらをとりまとめる翻訳会社も杜撰なんだろうな、と想像していますし、恐らく外れてはいないでしょう。


で、これをどう捉えるか。

恐らく、発注サイドとしては二通りの考え方があると思います。
「お金がなかったから、少々のミスは仕方ない。これはこれでOK。」
②「公開するのにこの内容はひどい。もっと払ってもいいから、良い会社に頼むべきだった。」

私が発注者なら、間違いなく②を選びます。つまり、良いものに仕上げてもらいたいので、「お金はない」かもしれないけど、なんとかして工面して、支払う。

ただ、実際世の中には①②の両方の人間がいるのも事実です。


価値を知らないととんでもないことになることも

こんなミスが多々見つかって、軽く怒りを超えて呆れてしまった私ですが、こういうミスが取り返しのつかないことに繋がってしまうこともあると思います。

例えば、人の命を扱う場合。

翻訳でも、医療分野、製薬分野の専門領域がありますが、こういう文書を翻訳すると、例えば数字のミスや、専門用語(化学薬品等ですね)の翻訳ミスで、冗談抜きで人命に関わることになってしまいます。

もしかしたら成分が致死量になってしまうかもしれないし、違う化学反応が起きて爆発が起きたり、なんてことがあるかもしれません。

(実際は、訳文チェックなども行われるのでそういう可能性はゼロに等しいと思いますが、このまえクラウドソーシングで医療系の翻訳案件が出ていて、「簡単な翻訳」なんて書いてあるけど、これ本当に大丈夫なのだろうか、と思いました。)


で、例えばこういうちょっとしたミスが大きな命取りになる場合、それでも「お金がないから」安いところで済ませるのか、それとも、少し高めでも信頼できる会社や相手にしてもらうのか、といえば、前者の選択は結構危ういことになってしまいます。


別に仕事じゃなくてもいいのですが、例えばワンコインで食べられる、添加物とかいろいろありそうな、けれどお腹はいっぱいになるものを口にするのか、それともその倍くらいするけど透明性のある材料を使った食事を口にするのか、という選択は現実的にあるはずです。

これも「お金がないから」安いものを買ってしまった結果、身体に悪影響が及んでしまうかもしれない。それならば、「安心と安全」を買って、「お金がなくても」後者を口にする方が、理にかなっているとは思います。


価値があるかどうかは、身銭を切らないと分からない

実は「どれだけの価値があるか」ということは、人によって違います。

さっきのHPの製作に関しても、「リターンが見込める」かどうかは人によって違いますし、食事の選択にしても「高いお金を払うより、安くても腹一杯食べたいんだ!」という人もいるでしょう。

それは、別に否定はしません。


ただ、いずれにしても「身銭を切らないと、価値は分からない」ものだと思います。

手持ちの少ないお金で手入れたものだから、愛着が湧いて大切に使うかもしれません。

サービスがいいと聞いていた店だが、払ったお金の割りには自分が思っていたものより劣っていた、なんてこともあるでしょう。

「身銭を切る」ことで、お金と何かを交換する訳ですから、そこからその「交換価値」が自分にとってはどうなのか、ということが分かる。

翻訳で重宝する辞書があるらしい。それを買おうかどうか。
自分への投資として、翻訳ツールを買ったり勉強本を買おうかどうか。

「お金が出て行く」ことばかりを考えると怖くなってしまいますが、「お金を払うことで何が得られるのか」ということまで考えれば、ある程度分かれば、怖さは半減します。

だからこそ、「お金がない」なんていわずに、身銭を切る経験をして「自分にとっての価値」を身をもって知ることが、大切なんだと思います。


余談〜世界はレイヤーに分けられている〜

この記事の前半でも「ありえないくらい安い額で仕事を依頼する人」の存在を述べました。

かつ、こんな現状を見てみると、自分だって「安い相手に仕事取られたらどうしよう」って考えますし、知り合いと話しても必ず「どうやって安い競争相手に勝つのか」と聞かれます。

これについて、今までは確かに不安でしたが、最近ちょっと、分かってきたような気がするんです。

それは、世界は見えないレイヤーに分かれているということ。

どういうことかというと、「安い早いサービスを求める」レイヤーがいる一方で、絶対に「お金を払ってもいいサービスを受けたい」レイヤーが存在する、ということです。

で、そういう人たちは、同じレイヤーどうして繋がりあうと思うんです(類は共を呼ぶ)。

例えば、私がHP製作をどこかに頼むとすると、「早い安い」業者に頼むかというと、そうはしない。
少し高いかもしれないけど「安心」を買ってそういう業者に頼むか、もしくは気の知れた知り合いに、しかるべき対価を払って頼むと思います。

そして、今までも仕事で地道に営業とかしてきましたが、似た考えを持つ者同士、集まっていきます。

翻訳を発注する側にも「安くして欲しい」という人もいれば、「文章のコンセプトまでニュアンスを理解した上で翻訳をして欲しい」なんて言ってもらえる人や「同じミッションを持つもの同士、よろしくお願いします」なんて言って頂く場合もあって、ああ、これがつまりは、みんなが口にするなんだろうな、とつくづく思います。

だから、「安い額で仕事を受けるところは、それだけの内容のものしか提供できないだろうから、意識しなくて良い」という風に、次第に考えるようになりました。

「価値」を知っている人同士は、それぞれが共鳴しあう。

そう、合理性だけでは、ヒトは生きてゆけないんです。


そっか、世の中こんな感じなんだな、ということに気づいたので(根拠は全くないですが笑)、あとは何をするのかといえば、研鑽あるのみです。

(そもそも、フリーランスとして個人で仕事をする時点で、スピードと規模では勝てない訳ですから、そんなレッドオーシャンに立ち向かっていこうなんて考えてはいません)

そのためには、自分がしっかりと価値を知って、相手にそれを提供していけるようになることが必要ですね。


さて、手元にあるお金。「お金がない」なんて嘆いていないで、いろんな「価値」と交換して人生豊かなものにしていきませんか。


2013年11月16日土曜日

合理性だけでは、ヒトは生きていけない

ブルートレイン(青い客車を機関車が引っ張る、夜行列車)の「あけぼの号」が来春で廃止とのことです。


(@上野駅)

うーん、いよいよブルトレ終焉か…、というのが率直な感想。ここまでよく持ったな、というのが本音でしょうか。

他にも有名な「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」「カシオペア」は残りますが、「北斗星」以外は臨時列車で、全部「豪華寝台特急」という、「ゴージャスさ」をウリにしている列車なので、いわゆる「市井の人」が利用する庶民派ブルトレは、実質的にこれが最後ですね。

ちなみにこの豪華3列車も、北海道新幹線が開通する2015年には廃止がほぼ確実だそうです。

(ほかにもサンライズや急行はまなすもありますが、厳密には「ブルトレ」にはあてはまらないのでここでは含めていません。)


先月こそ、JR九州でななつ星がデビューし、今後も富裕層を狙ったクルーズトレインは、運行するかもしれませんが、つくづく思うのが「なんでも合理化されている一途だな」ということです。


一昔前まで(10年前くらいです)だと、東京から九州各地へのブルトレが18時間くらいかけて目的地を走っていたり、他にも日本各地を結ぶ「青い客車」がありましたが、新幹線の開通や飛行機の台頭、車両の老朽化などもあって全廃。

世の中がどんどん「便利か、そうでないか」、もっと言うと「カネになるか、ならないか」で判断されて、前に進んでいっているように思います。

実際に、青森から鹿児島まで新幹線を乗り継いでいける今の時代だと、夜の6時に東京を出発して、翌日の昼前に熊本や大分に到着するブルトレなんて、需要がないのかもしれません(これは最終期の「はやぶさ・富士」のダイヤです)。

この距離だと飛行機で2時間前後で飛べてしまいますし、わざわざ18時間もかけて都心から九州に行く人なんて、物好きと思われても仕方ないかもしれません。



ただやっぱり、人間ってなんでもかんでも「合理的」に判断して選択・行動する生き物ではないと思うんです。


旅行・移動だけじゃないと思いますが、例えば仕事だって、どれだけ条件が良くても「自分にはしたいことがある」と言って、その仕事を選ばない人だっていますし、普段買物に行くのを取っても、「安いから」「近いから」という理由だけではなく「知り合いの店だから」「ここの料理は高いけどおいしいから」という理由で、店を選ぶ人は少なくはないと思います。


人って生きていく中で、ある程度のこだわりを持つようになるのだと思うのですが、そういうものって絶対に「合理性」に屈してしまうものではないと思うんです。

そのこだわりが、人によって違うことは明らかなので、誰がどんな選択をしてもそれはそれでいいと思うのですが、「合理的じゃないから」という理由だけで、選択肢そのものを奪ってしまう(なくしてしまう)ことは、極力しないほうがいいと思うんです。


そうは言っても、店にせよ鉄道会社にせよ、儲からなければ経営自体が行えないので、取る選択肢はおのずと決まって来るのでしょう。それでも、「経済的合理性」だけでものを廃止したりなくしたり、というのは、選択肢がなくなる、という意味では貧しいことなんじゃないかと思います。

「合理性」というのは結局「良いか悪いか」「(経済的)メリットがあるかないか=儲かるか儲からないか」のような二項対立的な軸でしか判断されず、「目に見える効果(節約できる、お金がもうかる、時間が短縮できる、など)がなければ×」という判断がされてしまうわけです。

二項対立で判断するのは、とても簡単です。だって自分にメリットがあるかないかで判断ができるから、決断に時間がかからないし、なんといっても楽です。


でもそうすると、非合理性の行間(非合理的なんだけれど、そこで感じられる奥深さ・奥ゆかしさのようなもの)が分からなくなってしまう。

ななつ星なんて顕著な例だと思いますが、クルージング料金は高いですし、3泊4日かけて九州をゆっくり一周するわけで、普通に回ればそんなに時間はかからないですし、お金もかかりません。

けれど、そこに流れている時間や経験というものを得たいために、すごく「非合理的」なものですが、利用したいと思う人が一定数いるわけです。


ある地域の温泉に行くのに、駅から近いところに行くのか、それともレンタカーを借りて山の中の温泉に行くのか、という選択も一緒です。

合理性を考えれば、前者のほうが時間もかかりませんし、お金もかからない。

けれど、それで「心は豊かになるのか」ということですね。(この言葉も多義的に解釈できるので曖昧ですが…)



僕は、音楽はiTunesでダウンロードするかTSUTAYAでCDを借りてパソコンに取り入れるのが合理的だと思ってやっていますが、アルバムジャケットにこだわる人や、好きなグループのCDは必ず買って持っておく、という人もいるでしょう。

「食事は安く、早く済ませたい」という人がいれば「少しお金を払っても、良いものを口にしたい」という人もいるでしょう。


振り返って頂ければ心当たりがあるかと思いますが、誰でも一件、合理的でない選択をしたり決断をしたりしています。



けれども、それこそが「豊かさ」なのではないでしょうか。


合理性のみを求めて進んでいくと、痛いしっぺ返しを喰らうのではないでしょうか。


2013年11月15日金曜日

トルコへ/Traveling around Turkey

トルコへ行ってきます。

といっても、来年3月の話です。

I'll travel around Turkey, Greece and Bulgaria on the next March. 

I wonder where to visit in the stay... Istanbul, Cappadocia, Pamukkale... Oh, I have no plan yet! lol (I stay in three weeks in around Turkey.)

If you have any recommendation to visit, please tell me!

I'm also looking forward to hosts who host me in Turkey, Greece and Bulgaria!

-> My Couchsurfing account is this.
https://www.couchsurfing.org/profile.html?id=N3YRPIK

もともとトルコは行きたいと思っていたところで、航空券の関係から

関空〜香港



香港〜トルコ

のチケットを別々に買って安く行こうか、と思っていましたが、

カタール航空のワンワールド加盟セールが、その約半額(往復6万円台)で販売していたので、安さを買ってチケットを購入…。

もともとは、スカイチームのマイルを貯めているので、

関空〜香港を中国東方航空(約3.5万円)で

香港〜トルコを大韓航空(約8.5万円)で

合計4週間(香港1週間+トルコ周辺3週間)ほど訪れようかと思っていましたが、

今回は安さ優先で(笑)

あまりいろんなアライアンスは使いたくないけど、今後のことも考えてワンワールドも持っておこうかと思いつつ…(笑)





できれば、香港周辺+トルコ周辺を一気に回って、香港ではどれくらい遠隔で仕事ができるのかも実験したかったですが…。

身一本で仕事をしているので、数週間日本を離れると仕事にも影響出そうですが、それもどうなるのかとかあまり分からないので、言うなれば「壮大な人体実験」ということですね、これも。

航空券の額も安くはないですし、これからの仕事のこと等も不安はもちろんありますが、「全てが揃う時はない」ということで、自分には時間があるし、うまいことやりくりしつつ、どんな風になるのかじっくり経験して来ようと思います。

何と言っても、「1年の3分の1はバカンス楽しみたいな〜」とか、なにも分からずに言っている身ですし(笑)、でも実際そんな風に生きていきたいな、と思っているので、仕組みもうまいこと考えながら、4ヶ月後まで駆け抜けようと思います。

2013年11月13日水曜日

好循環

最近、いい循環が起こっているなと思います。

朝は早い時間に起きて(といっても7時台ですが)、9時までには仕事を始め、昼食をとって、夕方には仕事が終わる。

今は一ヶ月以上に及ぶ大きな仕事を頂いていて、週の殆どは机にへばりついて翻訳をしているのですが、分量は多いけれどやっていて楽しいですし、そういうところから良い循環が起こっているのだと思います。

自分で自分を律するのは簡単ではないですが、自分でするしかないので、今の調子をこれからも続けていきたいです。

あとは、TEDのプレゼンも見て(NHKの「スーパープレゼンテーション」)、字幕翻訳の奥深さを垣間みながら、ちょっとでも心を豊かにしたいな、と思っています。

最近はCloudspotting(だったかな?)という、「雲を見る」活動をしている人のプレゼンが印象に残っています。

普段外に出ないのですが、こういう時間を作って、もっと精神的に豊かになりたいな。

つくづく心の余裕って大事だと思います。

2013年11月11日月曜日

逃げることは悪いことではない。逃げているということを素直に認めないのがいけないのだ

先日、もう3週間くらい前になると思うのですが、Facebookで知り合いからイベントの招待を頂きました。

その方は、今までに二度か三度くらいしかお会いしたことがなく、殆どがFacebookやメールでしかやりとりをしたことがないのですが、初めて知り合った時から、どんな活動をされているのかは追っていましたし、会う回数のわりには、いろいろとお世話になっている方でした。

そのイベント内容を見ると、どうやらその方が日本を発って、世界をウロウロしてくるらしいようで。
なんでも、その方の送別会なんだとか。

僕は関西に今住んでいて、その方も関西在住だったので、イベントも関西圏の知り合いを大勢呼んで開催するみたいでした。


その方には、他の機会にも沢山イベントの招待を頂いていたのですが今までいけず、この機会に行こうかとも思いました。

手帳も何度も確認して、日程調整もしたと思います。



でも、結局行かないことにしました。



理由は、あまり言葉にしたくないですが、「ああ、たぶんこの人本気じゃないんだろうな」と、イベントの文面を見て思ったから。


なんでもその知り合いは、二年以上かけて、世界を回って来るみたいです。


もちろん、それだけだったら僕も興味を持つのですが、その告知文にはまた、こんなような文面も書かれていました。


僕はもともと、世界平和に貢献するために活動をしてきました。しかし、世界平和を目指している自分が、世界に行ったことがない。だから時間をかけて、世界を見て回ることにしました」


すごくはしょっていますが、告知内容で触れられていた動機付けらしき部分は、このようなニュアンスでまとめられていました。


当人も、説明不足な点は認めているようでしたが、こういう文章を読んだ時に、「何か違うな」と僕の中で感じたのです。


世界に出る方法はいくらでもある
「世界平和」って、すごく曖昧な言葉ですし、人それぞれで解釈やイメージも異なるかと思います。

例えば地雷撤去であったり、伝染病が蔓延する地域で医療活動を行ったり、という「治安・健康の保障」というのは、一番イメージしやすいものでしょう。

他には、何を持って「平和」とするかの解釈によりますが、文字の読み書きを教えたり、義務教育の保障であるような「教育」面からの関わり方があったり、再生可能エネルギーの実用化を目指したり、地産地消に取り組んだり、というような「環境」面での関わり方もあるはずです。

そして、切り口が無数にあるがゆえに、コミットの仕方も一通りではないでしょう。

例えば、制度をうまく活用するのであれば、海外の大学院に進学して、自分の関心のある分野を極める、という方法。もしくは青年海外協力隊であったり、他の活動に参加する、という方法。

もしくは、企業的なアプローチをするのに、海外の関連企業で働いたり、自身で会社を興して関わる、という方法。

あるいは、僕の周りで一定数の方がされている方法ですが、どこか海外の地に移り住んで「個人」としてコミットをしたり、もしくは自身は日本にいながら、現地へのスタディーツアーのコーディネートをしたり、と言った方法。
(「個人で」というのは、自身でされている方がおっしゃっていますがものすごくハードルが高いようです。しかしここでは、環境的な難易度は考えずに、純粋に選択肢としていろいろと挙げてみました。)


いやはや、他にも選択肢はあると思うのですが、ぱっと考えるだけでも、いろんな手段があるんですね。

それに、そういう方法を使えば、否が応でもなんらかのコミットは可能です。


なぜ「旅」なのか
そう考えると、なぜ「旅」にこだわるのか?という素朴な疑問も湧いてきます。

上の例を見れば想像がつくと思うのですが、「世界平和」を成し遂げるには、一般的にはどこかに「根を張る」必要があるかと思います。「世界平和」という言葉は漠然としていて、少しこそばいですが、いずれにせよ「地域の課題を解決する」ことが、ひいては「世界平和に繋がる」と考えるのであれば、必然的に、ある国や地域に根を張って、活動して行くことになるのではないでしょうか。

翻すと、各地を転々とする旅で、どれだけ「世界平和」に関与できるのか、ということを考えると、興味はありますが同時に大きな疑問符が、僕にはつきました。

それに、具体的にどんな方法をイメージしているのかも、伝わって来ないんですね。例えば世界を旅するにしても、「世界平和」への関わり方として「環境」とか「食」とか「医療」とか「教育」とか、具体的な軸があればいいのですが、それが字面を見るだけでは分からない。本人は心の中に秘めているのかもしれませんが、キーワードすら確認できなかったのは、ちょっと残念でした。

そして。
文面を見る限りでは、そんなに海外にも行ったことのないようです。

英語はできるのか。

これ、結構大事だと思います。
いずれ「世界平和」を成し遂げるのですから、ある程度しっかりと意思疎通をはかれるだけの英語は、持っておくべき何じゃないのか。

これまた、フィリピン留学など方法はありますが、果たして実際に行うのかは、これだけでは分かりませんでした。


結局「世界平和」は、建前でしかないんじゃないか
そうなんです。この文面を見るだけでは、僕には本気が伝わって来なかった。それが、僕がこのイベントに参加しなかった理由です。

具体的な切り口も分からず、どんなことをするのかも分からず、ただ「みんなとわちゃわちゃしたい」オーラがぷんぷん漂ってきていました。本人は至って真面目に取組んでいるのかもしれないし、イベントの中でそういう話をする予定だったのかもしれません。

でも、いきなりイベントに誘われて、その告知文で熱いハートが伝わって来なかったから、これは参加しても徒労に終わるんだろうなあ、と、自分は判断した訳です。



やっぱり、人は本気じゃないと動かないです。

僕もいろんな人と付き合ってきましたが、本気で思っている人は、行動しているし、行動している量も違う。立ち居振る舞いだって違いますし、口にする言葉も違う。

そう。言葉が違うんですよ、本気の人って。
(言葉だけじゃないですが)

僕も一年くらい、今の道で仕事してきましたが、口にする言葉は本当に気を遣うようになりました。

というか、生半可なことは、下手に口にできないです。

言葉って、自分が思っている以上に力があるんですね。特に僕なんか、言葉には結構こだわる人間ですし、人が発した言葉は昔のことでも覚えていることがあります。

たぶん僕は、そういう姿勢に敏感だったのかもしれません。


だから、僕はこの字面を追った時に、ああ、たぶんこの知り合いは、本当の気持ちは別にあるんだろうな、けれど自分をよく見せたいがために、こんな風に言葉を使っているんだろうな、と思いました。
(あくまで自分の憶測です)


じゃあ、その「本当の気持ち」とは何なのか。


たぶんそれは、「逃げたい」ってことだと思っているのです、僕は。


僕も何度も逃げていた
こんなことを偉そうに言う自分は何様なんだ、という指摘が矢のように飛んでくるかもしれません。

しかし、正直に告白しますと、僕もいろんなことから逃げていました。

特に、去年くらいまでは、2年くらい逃げ続けていたと思います。

それは、目を向けなければならないことから目を背けていた、ということです。

具体的には書きませんが、今、道を歩いてきたからこそ振り返って、ああそうだったのか、と気づくことがあるんです。

しかし、僕は逃げることは悪いことだ、とは思っていません。むしろ、逃げないと行けない時は、全力で逃げるべきだと思います。真っ向から向き合っても、太刀打ちできない時もあります。

じゃあ、何がいけないのか。それは自分は逃げているんだ、ということを自分で認めないことだと思います。


逃げるって、あまり印象のいいものではありません。トンヅラとか夜逃げとか、確かにあまりいいイメージを持てるものではありませんね。

でも、人間生きてりゃ、誰だって逃げたい時がありますよ。

大学のレポート難しすぎる、とか、将来何がしたいか分からない、とか、仕事したくない、とか、いろいろあります。

だから、そういう時は、正々堂々と「私は逃げます!」って、伝えればいいと思うんです。


取り繕わなくていい。


逃げていても、いずれ直接向き合わなければならない時は来ます。

けど、だからといって逃げることが悪い訳じゃない。


「自分探し」って、今流行っているのかはわかりませんが、すごくいい響きを持った言葉です。

「自分探しの旅」って言って、学生でも仕事している人でも、どっかに行ってしまうことがあります。

それ、僕は全然否定しません。むしろ、行けばいいと思います。

けれど、認めましょうよ。「私は何がしたいのか分からないです」って。


僕も、ちょうど一年前は海外にいました。

その時は精神状態も危うかったんですが、当時の思いはまさに「私は何がしたいのか分からない」でした。


でも、「環境を変えればあらたな気づきもあるかもしれない。何か変わるはずだし、何か見つかるはずだから、逃げよう」と思ったんです。


だから、この知り合いにはー果たしてどこまで本気なのか分からないですがー正々堂々と「逃げます」って言って欲しかったですね。


「自分は世界平和を成し遂げたいけど、何がしたいか、何ができるのかよく分からない。海外の学府に留学して研究をしたり、団体や企業の一員として特定の地域にコミットしたり、いろんな関わり方があるみたいだけど、自分はそれができる勇気もない。英語もそんなに自信がない。だから、一年以上世界をフラフラして、逃げてきます」と言う風に。
(これ、完全に自分の妄想なのでその点はご了承下さい)


なんか、変に自分を良くみせるより、潔くって全然かっこいいですよ、このほうが。

僕は、こういう風にさらけ出してくれる人の方が、これからも付き合っていきたいなーと思います。

だから、自分自身はこれからも「いやー、直視したくないから逃げるわー」って、ありのままに言えるような(逃げてばっかりでもダメなんですが 笑)人間でありたいです。



さて、僕の知人。自分の進みたい道と決めて進んだのか、それとも逃げなのか。結果は時を追って自然に判明するでしょうから、どんな風になるのか、ちょっと楽しみです。

2013年11月9日土曜日

JR四国「バースデーきっぷ」がすごい

日本の「鉄道旅行切符」といえば、青春18きっぷが一番有名だと思うんですが、今回は、あまり知られていないと思われる「JR四国バースデーきっぷ」を紹介します。

バースデーきっぷとは…

簡単に言うと
・誕生月の連続三日間
・JR四国全路線全区間、及び土佐くろしお鉄道全路線全区間が乗り放題
グリーン車指定席/自由席、普通車自由席/指定席が乗り放題
・10,000円ぽっきり

という、超目玉商品です。

更に
・同伴者3名まで購入可(=誕生月の人がいれば最大4人まで購入可能!)

という、もうどうやっても損しないだろう、というような条件です。
(販売箇所は基本的にJR四国のみどりの窓口)


もともと鉄道好きで、小中時代の愛読書はJTB時刻表 (笑)だった僕は、小さい頃からか知っていて、一度だけ使ったことがありました。

2009年10月三連休。
当時は神戸に住んでいたので、朝一のバスで三ノ宮から徳島に移動→徳島駅で切符を購入し、グリーン車もふんだんに使いながら四国一周をしました。

当時未成年だったので、土佐のホステルで泊まった際にお酒は堪能できませんでしたが、おいしいものたべてグリーン車にも乗って、3日間遊び倒して10,000円!?という衝撃の価格だったので、貧乏旅行をしている身にとっては救世主のような切符だったことを覚えています。(もちろん宿泊費など、別にかかっていますが)

JRのグリーン車は、普通に乗ろうと思うとたいそうなお金がかかりますし、この切符は本当におトクだと思います。
(あとは、連続三日間ですけど、四日目に買い足したら6日間連続で回ることもできますしね。)

場所が四国限定なので、遠い場所に住んでいる人には厳しいかもしれませんが、今やLCCで高松や松山にも行けるようになりましたし、そんなに難しいことではないのかもしれません。

バースデーきっぷ、是非旅行に一度使ってみてはいかがでしょうか?








2013年11月8日金曜日

毅然と生きる

Facebook上で、翻訳関連の人が集まる非公開グループに参加して、いろいろやり取りを見たり、たまに自分も書き込んだりしているのですが、

毅然と生きるってすごいな、と思います。


グループ内に求人や仕事の情報が掲載されることも多いのですが、料金や分量や納期や、結構無茶(調節可能、とかではなく無理)なものが出ているんですね。

そういう時に、恐らく何年も、何十年ものキャリアを持っている方が「それはおかしい・ありえない。この条件ならします」ということを書き込まれているんですが、これってすごくかっこいいことだと思います。

ただかっこいいだけじゃなくって、自分にも必要なことだし、かつ簡単じゃないこと。

経験が十分になかったり、などで自分を過小評価すると「それでもやるか」ってほうに流れがちな訳ですが、そういう判断って全部自分でする訳で。

かつ、仕事がない時とかって不安にもなったりするので、ついつい目先の利益に目がくらんでしまうことも多い訳で。

こういうことができる人って、付き合う人を選べるんだろうなー、と思います。

縁あって工芸品の世界とか見させてもらいましたが、やっぱり「お金を払わないと分からない価値」とかって、あると思うんです。

そして、その価値を知っている人と知っていない人の間には断絶がある。

翻訳の世界でも、本当に価値提供できる人、価値を知っている人って一握りかもしれないけど、存在していて、そういう人は付き合う条件とか、人を選ぶ。

ただただ、かっこいい。

そういう人って、「仕事の単価が下がって新興国に流れて行く」なんて言われている世界でも、困ることはないんだろうなー、と。

そこにあるのは、「競争」じゃないんだろうな。

付加価値を付けるというか、そういう感じ。

うーん、あまりうまくまとめられてないですが、


僕も、自分自身を守る、ということも含めて、もっと毅然と生きて行きたいな、と思いました。

2013年11月7日木曜日

インドの大どんでん返し

今、インドのニューデリーで行われる「日本文化祭」で「日本紹介のフリーペーパー」を配るために、インドに向かっています。






となっているはずでした。

しかし、そうはならずに、日本でこうやってブログを書いています。


8月のお盆の時期に先方から連絡があって、今まで時間とお金と戦いながら動いてきましたが、


イベント本番10日前に、まさかのイベント中止


というわけで、イベントがキャンセルになりました…。


人生始まって以来の大どんでん返し。


さすがに、本番10日前にイベントキャンセルっていう話は聞いたことありませんでしたし、ましてや経験するなんて思っていました。


この3ヶ月間で、いろんな人に協力して頂いていたので、すごく申し訳ない気持ちと一緒に、これからどうやって関わっていこうか、形にしようかを考えています。

(関係者の皆様には、本当にお手数をおかけしてすみません。)

幸い、航空券も取っておらず、フリーペーパーも印刷の入稿をしていなかったので、ビザ取得の費用だけが出て行きました。

出展費も既に払っていて、「もしかしたら新手の詐欺か」と思いましたが、きちんと帰ってきたのでどうやら本当にトラブルが起きて、キャンセルになったらしいです。


ちなみに、キャンセル理由は「会場に関する不可避の理由」だそうです。


何やねん(笑)


日本だとまず考えられないでしょうが、これがインドかー、と妙に納得しました。

ただ、中途半端に形になるところに来ているので、別の方法でもいいので、何かやりたいです。


うーん、生きていると想像もしていなかったことが沢山起こる。

2013年11月6日水曜日

PC用メガネが使いやすい

今月に入ってから、ブルーライトカットのPC用メガネを使っています。

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こんなんで本当に楽になるのかと思っていましたけど、全然違います。目への負担がすごく減りました。


もともと視力がとても悪く(両目0.1以下)、このPCメガネは度が入っていないので、コンタクトレンズをしないといけないのですが、仕事柄パソコンのにらめっこしているので、少し手間をかけてこちらを選びました。

PCメガネってもっと高いのかと思っていたら、2,000円以下で買えるんですよね。

パソコンやスマホ、テレビから出るブルーライトは、長時間目にすると、体内時計が狂ったり(ホルモンか何かの働きが悪くなるらしいですね)するみたいなので、案外需要はあるんじゃないかと思います。

今までは目がぱしぱしになっていて、肩への負担もだいぶあったのですが、PCメガネかけているだけで、精神的な負担も全然違いますし、実際に目の疲れが違う。


これからの仕事道具の一つになりそうです。



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2013年11月4日月曜日

不安定こそ、安定なのか

年明けからずっと、フリーとして仕事をしているのですが、当然というか、不安定です。

収入的に不安定なのはもちろん、それがひどくなると、精神的にも不安定になります。(ただ、それが変な方向で発露することはないです)


毎月の収入は当然ながら違いますし、来月の仕事のアテがあるわけでもない。つまり、いわば「一寸先は闇」の世界を生きているわけです。

最近は幸いなことに、ある程度収入の幅が安定してきているのですが、それでも数ヶ月先はどうなっているか、わかりません。


そんな僕は、現在複数の仕事をさせて頂いています。

本業、かつ表向きの仕事は「翻訳」ですが、通訳の仕事もさせて頂きましたし、Kindle Direct Publishingで本も出版しています。

また、メインの翻訳も、複数の会社に登録することができたり、自分で開拓したお客様も複数いて頂いているので、頂く仕事の量や内容も、いろいろです。


そこで、ふと考えるんですね。


「実は、複業こそが生物的に本質に近い生き方なのではないか?」と。

今の世の中、終身雇用がなくなって、年功序列も崩れ、人ひとりが仕事をする期間より、会社の寿命が短くなっている、なんて言われます。

そういう潮流の中で「一つの仕事(一般的には会社)に頼ってしまうと、それが潰れると生きて行けなくなる」ということが、多くの場で言われてきているのも、事実です。

それでも、まだ「会社員(正社員)/公務員」として「一つの取引先のみ」と働いている人が多い訳ですが、これってやっぱり、変なんじゃないかな、と思います。


僕たちは毎日、ご飯を食べます。

その食卓には、白米があって味噌汁があって、肉料理や魚料理、野菜等、いろいろなメニューが出てきます。

当然ながら、毎日口にするものは違いますし、それらに含まれる栄養やエネルギー(カロリー)も、異なってくる訳です。

そして、よくよく考えると、人間は何も、一種類の食糧を口にして生きていっている訳じゃないんですね。

穀類でも、ご飯を食べる時があればパンを食べる時もあります。一口に野菜といっても、いろいろあります。

そして、仮に何か一つの食糧が手元に届かなくなっても、代わりとなる食糧があるから、生きていけるわけですね。


だから、経済的ななエネルギー(=お金)を手に入れるのに、たった一種類のエネルギー源だけだと、それが潰れるとおしまいです。


もっと言うと、食糧を手に入れるのに、スーパーAしかないと、それが潰れるとダメ。自分で農業をしていても、畑(田んぼ)Aしかないと、それが潰れるとダメ。

結局、「規模の小さい複数の選択肢」を持っている方が、生き残りやすいのではないでしょうか。

(生態系も、複雑な方が種が絶滅しにくいといいます。)


そう考えると、翻って、自分が口にするエネルギーがたった一種類でいいのか、それを作る畑が一カ所でいいのか。

生物の本質を探って行くと、ぼくはどうも、そうではないような気がします。


今「生物学的文明論」という本を読んでいますが、こういう本を読んでいると、ますます種の多様さ、生態系の多様さって大事だ、と思います。

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もっというと、世の中にある生態系が、果たして自分という生命に合ったものなのか。

生物の世界には、そんなヒントが隠されているように思います。


いずれにせよ、僕は「一つの取引先とずっと付き合う」という見せかけの安定が怖いので、今このような方法で仕事をしています。

実際にやってみると、一つ一つの取引額は大きくはありませんが、ゼロになることもなく、「勝ちづらいけど負けにくい」生態系なんだな、と思います。

「月三万円の仕事を5つ作れば、月に15万円稼げる」なんて考え方もあるように、こういう方法のほうが、案外生命の本質に則っているんじゃないかと思います。

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もう一つ、今の仕事をしていると、会社員のとき見たいに「一月いくら」ではなく「これだけの仕事をするといくら」というのがはっきりと分かるので、計算がしやすくなりました。

だから案外、何が安定で何か不安定なのか、分からなかったりするのかもしれません。


目をつぶっているから、安定だと思っているだけなのか。

勇気を持って、不安定な状態を知った方が、安定しているのか。


どうやら、僕の作り出したい生態系は「複雑で不安定な、でも滅びにくい」もののようです。

楽天初優勝おめでとう。そして、ありがとう。

東北楽天ゴールデンイーグルス、初優勝。

球団創設時から応援してきて、9年。

長かった、のかな。


ちょうど12年前、2001年9月26日に、近鉄バファローズの代打北川・逆転満塁サヨナラホームランをテレビで見て、近鉄ファンになり、球団消滅などを経て、2013年9月26日、楽天がリーグ初優勝。


今日は予定の都合で観戦はできなかったけど、本当に優勝して嬉しかったし、何よりも力をもらいました。

僕も頑張って、生きていこう。



2013年11月2日土曜日

先が見えない恐怖・先が見える恐怖

一年半ほど前に読んだ、石田衣良の「40(フォーティ)〜翼再び」という本の中で、すごく印象に残った文章がありました。

一言一句まで思い出せないのですが、次のようなニュアンスで書かれていました。


「20代、30代は先が見えない不安がある。しかし40代になると、それは先が見える不安に変わる」


当時23歳の僕にとって、この言葉は衝撃的でした。

なに、先が見える恐怖なんてあるのか…と。


今僕はまだ20代前半で、とうてい「先が見える」状態ではありません。

かといって、それが不安というより、楽しみでもあります。

まだ、どこにでもいける。何にでもなれる。

でも、そういう時期にも終わりが来るんだな…、となにか天井の高さを知ってしまったような、愕然とした気持になりました。

長い人生を歩まれた石田さんだからこそ、こういうことが書けるのだと思いますが、それまで「先が見える恐怖」なんて文学作品でも目にしたことはありませんでしたし、本当に、冗談抜きで、この一言は衝撃的でした。

もし仮に、40代になると「先が見える恐怖」に苛まれることになるのなら、それまで16年とちょっと。

それまでに、どこまでいけるか。何ができるか。

もちろん、いつになっても恐怖に苛まれることには変わりないのかもしれませんが、決して目をそらさずに、しっかり向き合って、前向きに歩いていきたいものです。



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2013年11月1日金曜日

人生24周目は

先日、誕生日を迎え24歳になりました。

年男なんですね、実は。

毎年、正月は家族と一緒に祝って、その時に年男であることも言ってもらうのですが、今年は年末年始に海外にいたためそれもなく、あまり年男であるという実感は湧いていません。

でも、また齢を一つ重ねました。

いろいろ思うことはありますが、何よりもまず、健康で元気にこの一年間を過ごせたことに感謝です。


「第二の誕生」から一年

ちょうど一年前、23歳の誕生日を僕は、はからずしも海外で迎えました。
誕生日になったのは、ちょうど夜行列車に乗っていたとき。

人生23年目、この誕生日は僕にとっての「第二の誕生日」となりました。

一年前に考えていたことは当時の記事をご覧頂きたいのですが、今と殆ど全く同じことを考えて、文章に残していました。


そんな一年は、とてつもなく長かった

この一年間は、とてつもなく長い時間でした。

それは悪い意味ではなく、むしろ良い意味で。

去年の11月、12月を海外で過ごし、帰国後どうしようか考えている頃に、いろんな方から声をかけて頂いて、結局今の道を選びました。

今は、組織に属さず、フリーランスとして仕事をしています。驚くことにまだ、今の環境に身を移して1年も経っていないんですね。

当時、もちろん仕事は殆どなく、知り合いの方から頂いた仕事をこなしながら試行錯誤を続けたわけですが、10ヶ月間で仕事も多く頂けるようになりましたし、取組む内容も変わりました。

(今は、外向きには「翻訳家」と名乗っていますが、実際は複数の仕事をさせて頂いているので、何でも屋と言った方が適切かもしれません。笑 ただ、もちろんメインの仕事は翻訳関連です。)

そして、こんな風にいろいろと取組んだことを振り返ると(あまり振り返る余裕もないですが)、一年365日って、思った以上に長いんだなということに気づきました。

これは、環境を変えないと分からなかったことかもしれませんし、逆にいうと、それだけ毎日が変化に富んでいる証拠なのかもしれません。
そういう意味では、本当に、こんな自分を支えて頂いている皆さんには感謝の気持でいっぱいです。

正直、道を選んだ当初は自分でもどうなるか分かりませんでした。(続くかどうかも、ぶっちゃけ分かりませんでした。)でも、この10ヶ月間、がむしゃらに動き続けたことで、少し芽がでて、次に続くようになっているんだな、ということが分かりました。

もしかすると、人生というのはRPGのようなものなのかもしれません。(僕はドラクエもファイナルファンタジーもしたことありませんが。笑)

今立っている場所から、遠い遠い目的地が見える訳じゃないんですね。でも、手元の地図に書かれてある「ミッション」をクリアして行くことで、自ずと道が開けてくる。そんな感覚です。

そして、こんな感覚、こんな仕組みは、実際に一歩を踏み出した人しか知り得ないものなのではないでしょうか。

何か新しいものを始めるとき、第一歩を踏み出すのが一番怖いし、エネルギーがいる。だって、踏み出した先はよくわからないし、踏み出してしまうと、元には戻れないから。

でも実は、進み始めると、そこからはいろんな助けが出て来るんですね。だから、一歩を踏み出すのはすごく度胸と覚悟がいります。逆に言うと、度胸と覚悟があればなんとかなる、ということでもあるかもしれませんが…。

そして、こんな風に、自分で前に進んでみて、いろいろ経験して、分かって、手応えがあったりなかったり。これらは全部自分の血肉になります。今、まだ失うものが少ない環境で、これだけのことを学べたのは文字通り、大きな収穫でした。

だから、これから先、一年後のことは僕も分かりません。けれど、1年間動けば、相当のことはできますし、1年という時間は、それほどにも貴重で価値の大きいものなのだと、僕は思っています。


人間は本来、自由である
そして、そんなことを通して、生きるって本当は、自由なことなんだと思うようにもなりました。

朝いつ起きてもいいし、夜いつ寝てもいい。いつ仕事をしてもいいし、どこで仕事をしてもいい。
(もちろん、納期やら何やらはあるのですが)

暇な時は近くをブラブラしたり、本を読んだりテレビを見たり。

僕自身も、なかなか余裕はありませんが、それでも「生きるって、こんなに自由なんだな」と思えるようになったのは、こんな環境に身を置いてしまったからに違いありません。

もちろん、自由であることには責任が伴います。自分の仕事は自分でこなさないといけませんし、自分の力を付けることも、体調管理も、何から何まで、自分でやらなければいけない。

でも、そんな適度な緊張感がある中で生活ができるからこそ、良い循環に繋がっていくのかもしれません。

そして、自由であるとは、あくまで手段であるということ。自由になって何がしたいのか。それを常にイメージして、生きていきたい。
(妄想偏重になってしまうの僕も困ったものですが。笑)


人あっての自分
最近は、自分がいかに、どれだけ多くの人に支えて頂いているのかを痛感しています。

そもそも、仕事を自分で作り出している状態ではありませんし、自分のできないこと、苦手なことはいろんな人に代わりにして頂いたり、助けて頂いています。

そして、そんなことを通して、人を紹介して頂いたり、仕事を頂いたり、そういうことに繋がっていくんですね。

フリーで仕事を始めて、多くの人に支えて頂いているということを、一層知りました。

そして、その中で自分は何ができるのか。何をお返しできるのか。これからはそこも意識して、生きていきたい。


生態系を作り出す
この一年は、生態系作りに力を入れようと思っています。

「生態系」というのは、仕事的なものもありますし、生活的なものもあります。すなわち循環。どこか外部の生態系に頼り切ってしまうのではなく、自分自身の、独自の生態系を作り出せるようにしたい。

先程、人あっての自分と書きましたが、これと「人に依存すること」は、全く違うことなんですね。

仕事でもなんでも、他人に期待しすぎると、その期待が裏切られた時が怖いです。それは、単に精神的なものというよりは、経済的、もしくはエネルギー的な意味でです。

ひとつの会社だけと仕事をしていて、そこから生まれる収入だけだと、それが潰れると終わってしまいます。

食・エネルギー的にも、仕入れ先が一つだけだと、リスクが高い。

なので、この一年は「細分化」を行って、できるだけ潰れにくい、そして自分独自の生態系を作り出すことに挑戦しようと思います。
(具体的なプランがある訳ではないのですが。笑)


自分が生きていく環境を、自分で作っていく。もちろん、生態系である以上自分一人だけでは厳しいのかもしれませんが、どれだけ独自の進化を遂げられるか。イメージするだけでワクワクします。


経験知を増やす
仕事柄、常に言葉と触れ合っています。

けれど、言葉って、言葉だけで存在するのではないんですね。

つまり、その言葉が表す内容(シニフィエ)があって、それが記号(シニフィアン)で表される。

だから、言葉というのは、それが意味するものを知らないと理解できない、と思っています。

(特に、高校の時は現代文が何を言っているのか分からなかった。これは今では、そのシニフィアンを理解できるだけのシニフィエが、自分の中にはなかったのだ、と言う風に考えています)

翻訳というと、どうしてもデータを見て、辞書等を使って調べて、適した言葉を選ぶ、ということになってしまいますが、自分はそれでは満足できない。

そのシニフィアンが何なのか、自分自身が分かっているのか。

自分の(言葉の)センスを磨くためには、もっともっと、いろんなことを経験知として、自分の中に蓄える必要があるのではないか。

頭で分かることではなく、身体が知っていることを増やしていく。

これにもっともっと、こだわっていきたい。



なんだか、すごくとりとめのない文章になってしまいましたが、自分自身の「こだわり」を持って、次の一年を歩んでいこうと思います。

皆様、今後ともよろしくお願い致します。