ブルートレイン(青い客車を機関車が引っ張る、夜行列車)の「あけぼの号」が来春で廃止とのことです。
旅行・移動だけじゃないと思いますが、例えば仕事だって、どれだけ条件が良くても「自分にはしたいことがある」と言って、その仕事を選ばない人だっていますし、普段買物に行くのを取っても、「安いから」「近いから」という理由だけではなく「知り合いの店だから」「ここの料理は高いけどおいしいから」という理由で、店を選ぶ人は少なくはないと思います。
人って生きていく中で、ある程度のこだわりを持つようになるのだと思うのですが、そういうものって絶対に「合理性」に屈してしまうものではないと思うんです。
そのこだわりが、人によって違うことは明らかなので、誰がどんな選択をしてもそれはそれでいいと思うのですが、「合理的じゃないから」という理由だけで、選択肢そのものを奪ってしまう(なくしてしまう)ことは、極力しないほうがいいと思うんです。
そうは言っても、店にせよ鉄道会社にせよ、儲からなければ経営自体が行えないので、取る選択肢はおのずと決まって来るのでしょう。それでも、「経済的合理性」だけでものを廃止したりなくしたり、というのは、選択肢がなくなる、という意味では貧しいことなんじゃないかと思います。
「合理性」というのは結局「良いか悪いか」「(経済的)メリットがあるかないか=儲かるか儲からないか」のような二項対立的な軸でしか判断されず、「目に見える効果(節約できる、お金がもうかる、時間が短縮できる、など)がなければ×」という判断がされてしまうわけです。
二項対立で判断するのは、とても簡単です。だって自分にメリットがあるかないかで判断ができるから、決断に時間がかからないし、なんといっても楽です。
でもそうすると、非合理性の行間(非合理的なんだけれど、そこで感じられる奥深さ・奥ゆかしさのようなもの)が分からなくなってしまう。
ななつ星なんて顕著な例だと思いますが、クルージング料金は高いですし、3泊4日かけて九州をゆっくり一周するわけで、普通に回ればそんなに時間はかからないですし、お金もかかりません。
けれど、そこに流れている時間や経験というものを得たいために、すごく「非合理的」なものですが、利用したいと思う人が一定数いるわけです。
ある地域の温泉に行くのに、駅から近いところに行くのか、それともレンタカーを借りて山の中の温泉に行くのか、という選択も一緒です。
合理性を考えれば、前者のほうが時間もかかりませんし、お金もかからない。
けれど、それで「心は豊かになるのか」ということですね。(この言葉も多義的に解釈できるので曖昧ですが…)
僕は、音楽はiTunesでダウンロードするかTSUTAYAでCDを借りてパソコンに取り入れるのが合理的だと思ってやっていますが、アルバムジャケットにこだわる人や、好きなグループのCDは必ず買って持っておく、という人もいるでしょう。
「食事は安く、早く済ませたい」という人がいれば「少しお金を払っても、良いものを口にしたい」という人もいるでしょう。
振り返って頂ければ心当たりがあるかと思いますが、誰でも一件、合理的でない選択をしたり決断をしたりしています。
けれども、それこそが「豊かさ」なのではないでしょうか。
合理性のみを求めて進んでいくと、痛いしっぺ返しを喰らうのではないでしょうか。
(@上野駅)
うーん、いよいよブルトレ終焉か…、というのが率直な感想。ここまでよく持ったな、というのが本音でしょうか。
他にも有名な「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」「カシオペア」は残りますが、「北斗星」以外は臨時列車で、全部「豪華寝台特急」という、「ゴージャスさ」をウリにしている列車なので、いわゆる「市井の人」が利用する庶民派ブルトレは、実質的にこれが最後ですね。
ちなみにこの豪華3列車も、北海道新幹線が開通する2015年には廃止がほぼ確実だそうです。
(ほかにもサンライズや急行はまなすもありますが、厳密には「ブルトレ」にはあてはまらないのでここでは含めていません。)
先月こそ、JR九州でななつ星がデビューし、今後も富裕層を狙ったクルーズトレインは、運行するかもしれませんが、つくづく思うのが「なんでも合理化されている一途だな」ということです。
一昔前まで(10年前くらいです)だと、東京から九州各地へのブルトレが18時間くらいかけて目的地を走っていたり、他にも日本各地を結ぶ「青い客車」がありましたが、新幹線の開通や飛行機の台頭、車両の老朽化などもあって全廃。
世の中がどんどん「便利か、そうでないか」、もっと言うと「カネになるか、ならないか」で判断されて、前に進んでいっているように思います。
実際に、青森から鹿児島まで新幹線を乗り継いでいける今の時代だと、夜の6時に東京を出発して、翌日の昼前に熊本や大分に到着するブルトレなんて、需要がないのかもしれません(これは最終期の「はやぶさ・富士」のダイヤです)。
この距離だと飛行機で2時間前後で飛べてしまいますし、わざわざ18時間もかけて都心から九州に行く人なんて、物好きと思われても仕方ないかもしれません。
ただやっぱり、人間ってなんでもかんでも「合理的」に判断して選択・行動する生き物ではないと思うんです。
人って生きていく中で、ある程度のこだわりを持つようになるのだと思うのですが、そういうものって絶対に「合理性」に屈してしまうものではないと思うんです。
そのこだわりが、人によって違うことは明らかなので、誰がどんな選択をしてもそれはそれでいいと思うのですが、「合理的じゃないから」という理由だけで、選択肢そのものを奪ってしまう(なくしてしまう)ことは、極力しないほうがいいと思うんです。
そうは言っても、店にせよ鉄道会社にせよ、儲からなければ経営自体が行えないので、取る選択肢はおのずと決まって来るのでしょう。それでも、「経済的合理性」だけでものを廃止したりなくしたり、というのは、選択肢がなくなる、という意味では貧しいことなんじゃないかと思います。
「合理性」というのは結局「良いか悪いか」「(経済的)メリットがあるかないか=儲かるか儲からないか」のような二項対立的な軸でしか判断されず、「目に見える効果(節約できる、お金がもうかる、時間が短縮できる、など)がなければ×」という判断がされてしまうわけです。
二項対立で判断するのは、とても簡単です。だって自分にメリットがあるかないかで判断ができるから、決断に時間がかからないし、なんといっても楽です。
でもそうすると、非合理性の行間(非合理的なんだけれど、そこで感じられる奥深さ・奥ゆかしさのようなもの)が分からなくなってしまう。
ななつ星なんて顕著な例だと思いますが、クルージング料金は高いですし、3泊4日かけて九州をゆっくり一周するわけで、普通に回ればそんなに時間はかからないですし、お金もかかりません。
けれど、そこに流れている時間や経験というものを得たいために、すごく「非合理的」なものですが、利用したいと思う人が一定数いるわけです。
ある地域の温泉に行くのに、駅から近いところに行くのか、それともレンタカーを借りて山の中の温泉に行くのか、という選択も一緒です。
合理性を考えれば、前者のほうが時間もかかりませんし、お金もかからない。
けれど、それで「心は豊かになるのか」ということですね。(この言葉も多義的に解釈できるので曖昧ですが…)
僕は、音楽はiTunesでダウンロードするかTSUTAYAでCDを借りてパソコンに取り入れるのが合理的だと思ってやっていますが、アルバムジャケットにこだわる人や、好きなグループのCDは必ず買って持っておく、という人もいるでしょう。
「食事は安く、早く済ませたい」という人がいれば「少しお金を払っても、良いものを口にしたい」という人もいるでしょう。
振り返って頂ければ心当たりがあるかと思いますが、誰でも一件、合理的でない選択をしたり決断をしたりしています。
けれども、それこそが「豊かさ」なのではないでしょうか。
合理性のみを求めて進んでいくと、痛いしっぺ返しを喰らうのではないでしょうか。
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