2014年1月12日日曜日

過剰サービスの功罪

先日の脱社畜ブログの内容が、面白かった。

日本人は契約内容以上のサービスを相手に求め過ぎ


なるほど、言い得て妙だと思いました。


僕も、海外をウロウロしていると、「日本のサービスはやっぱり質が高い」と思うことが、多々あります。

・タクシーのドアが自動で開く
(インドやベトナム、ポーランドでは、自分で開けなければいけませんでした)
・スーパーのレジ係の人の対応の早さ、細かさ
(デンマークやドイツでは、レジ打ちは座って仕事。お客さんと雑談をしている時もありました)

など、これはあくまでも一例に過ぎませんが、時には日本は少し異常だ!と思うくらいに、日本のサービス精神の旺盛さには、目を見張るものがあります。

タダでもらえるスマイル
電車に乗っている時の案内、遅延時の応対など
(後者については、東京でアナウンスを聞いても全く分かりませんが…)


日本は、いろんなサービスで溢れ返っています。


ただ、先の脱社畜ブログでも書かれていたように、過剰なサービスには、デメリットもあるのではないかと思います。

僕が考えるのは、以下の二点です。

1、「対価を払う(得る)」という感覚を失ってしまう
(何でもタダで手に入る、と思ってしまう)

お金というのは、何かとの交換手段です。
電車に乗る、食事をする、宿泊をする…
何かを「得る」ためには、何かを「渡す(与える)」必要がありますが、過剰なサービスを受けっぱなしだと、自分は何に対価を払っているのか、また、受け手としては、自分は何を対価に得ているのか、ということが不明瞭になります。

インドに行った時に経験したのですが、空港に付いた時にタクシーを呼んだ時に、見知らぬおじさんがスーツケースを運んで、タクシーまで運んでくれました。

「親切な人だな〜」とおもっていると、いきなり手を差し出してチップを要求されました。


さすがに、こちらから頼みもしていないことにチップを払えなかったので(かつ気分も害したので)、相手にせずにタクシーに乗り、そのまま移動しましたが、端的にいうと、「荷物を運んでもらった」ということに対しても「対価を払う」というのが、ある意味正当性を持った考え方です。

(なので、今では海外にいると、タクシーを使う時は当然ながら、自分で扉を開けますし、荷物をトランクに積む時も、自分で開けます。運転手さんがやってくれる時もありますが、いつチップを要求されるか分からず、ビクビクしています。笑)

もしくは、問題になっているサービス残業

仕事の時間が伸びるからには、相応の給料を払ってもらうというのが、当然「対価」として発生するべきです。
もしくは、自分の仕事の捌き方が上達したり、顧客が増えたりというのも、(間接的にではありますが)「(自分が受け取る)対価」に、なりうるでしょう。

(間違っても、「やりがい」を対価で受け取ってはいけません。)

残業になってしまう場合は、それが「会社の売上増」「顧客増」など、会社にとってのプラス要素を提供することになるわけですから、やはりきちんと「対価」は、受け取らないといけませんし、サラリーマンも「仕事のプロ」ですから、そういう意識は持っておかないといけないでしょう。


そして、1の状態になってしまうと、ゆくゆくは
2、自分の頭で考えなくなってしまう
という状態に陥ってしまうかもしれません。

これが怖い。


自分は何に対価を払ったのか?
あるいは、自分は何を対価として受け取ったのか?


そういうことを考えるクセをつけておかないと、ゆくゆくは(特に、対価のやりとり、という点で)思考停止に陥ってしまうのではないか、と思います。

「契約」までは、僕もなかなか考えることはできませんが、「自分が与えたこと(どれだけ対価を払ったのか)」と「自分が受け取ったこと(どれだけ対価を受け取ったのか)」を頭の中で整理しておく、考えておく、ということは、これから生きていく中で必要なんじゃないかと思います。

それが、自分のとっての「価値とは何か」ということになりますし、これをきちんと整理しておかないと、人からいい具合に利用されて終わってしまうでしょう。


今、個人で仕事をしていて思うのは、「相手にはきちんと対価を払いたい(お返しをしたい)」ということ。

そういう人たちに囲まれたからなのかもしれませんが、お金であれ、他の方法であれ、他人に対してどれだけ払えるか、与えられるか、それをきちんとできるかどうかが、自分にとっては大事だと思っています。

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