2015年5月28日木曜日

究極的に人生は虚無

どれだけ毎日が充実していても、時々こう思うことはありますね。



人生って究極的に虚無だと。



だって、これだけ毎日楽しいのに、死んだら何も残らないわけです。


どれだけお金を稼いでいても、自分が変わるわけではないし(取れる選択肢が増える、というのは事実ですが)、何かを後に残せるわけではない。

どれだけおいしいご飯を食べても、明日になったらその味はたぶん忘れているでしょう。

19時になっても明るい西の空を見ると夏の訪れを感じますが、同時に、あとこの季節を50回くらい通り過ぎれば、自分の命も尽きてしまうことにも気づきます。

どれだけ仕事を頑張ったからといって、それだけで世界を直接的に変えることはできないだろうし、自分が残せることもほとんどないでしょう(これは職種によっても差はあると思いますが)。

あの日あの場所で見たきれいな景色も死んだら絶対に残らないし、

あの時あんなきっかけで心が揺さぶられたことも、忘れてしまうでしょう。



10代後半の頃からものすごく、死に対する恐怖を感じることになりました。

そしてそれは、先立たれてしまい後に残されてしまった苦しみから学んだことでもありました。

今でも何度も、死に対する恐怖を感じる時があります。

いや、恐怖というよりも、「どれだけ力を振り絞って生きても、最後には何も残らないのだ」という、虚脱感といった方が的を射ているかもしれません。


こんな虚無感を時々心に抱えて生きている人は、おそらく私だけではないでしょう。


虚無と向き合うことはとてもしんどいことです。なぜなら人間は、少しでも自分が生きた意味を人生に見出したいし、自分が世界を動かした証拠、世界を変えることができた証拠を少しでも多く欲しがっているからです。一人でも多くの人に、役に立ったと言われたいですし、少しでも多く、他人から認めて欲しい。そんなあなたが、「究極的に何も残らない」ことをそうやすやすと認められるでしょうか?それはつまりは、今まで積み上げてきたものの否定につながるわけですから、そりゃもちろんしんどいです。



でも裏を返すと、虚無と向き合うからこそ生きるエネルギーが生まれてくるのです。


だって、究極的に何も残らないんだから。究極的に誰も変えることはできないし、誰に気づいてもらうこともないだろうし、誰に覚えて続けてもらうこともないだろうから。


だからこそ、自分がやりたいことに精一杯エネルギーを使って、最後は何も残らなくとも「自分がやりたいことをやれてよかったな」と、本当に最期に思えれば、それでいいんじゃないか。決して誰に振り向いてもらわなくとも、自分が納得して命を全うできたのであれば、それでいいじゃないか。


そして、そんなことに精一杯力を注いでいる中で出逢った人を大切にする。だってすごいことですよ。血も繋がっていないどこぞの赤の他人に興味を持ってもらえるなんて。


人間は、いつかは死ぬ。それは怖い。


だけれども、「いつか死を迎える」ということと、「どうせ死ぬんだから人生なんてどうでもいいや」ということは、同義では決してない。





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