【「時間は平等」は、嘘】
時間が平等なら、寿命は皆同じになります。しかし寿命は同じではありません。つまり時間は平等ではないのです。
一生の中の24時間を切り抜いて、「時間は平等」と見るのは、大切なことを見落としています。健康を大切にすることが、時間を増やすこと繋がるのです。
— 深井 貴明 (@fukaitakaaki) 2016, 1月 22
いやー、深井さん、よくぞおっしゃって下さいました
って感じです。
僕も今までずっと、「時間って平等じゃないんじゃない?」と思っていたんですよ。
その理由はまさに、このツイートに言われていることでした。
30歳になるまでに死んでいく人がいる一方で、
100歳を超えて生きる人もいるわけじゃないですか。
これらの例はやや極端ですが、果たしてこれらの人達が過ごした時間は「平等なのか?」とは、ずっと疑問に思っていました。
僕が「時間は平等ではない」と考える理由は、実はもう一つあります。
頭がいい人っているじゃないですか。ここでの「頭がいい」というのは、別に学校でのテストの点がいいとか、難関大学に楽勝で合格できる、とかじゃなくって、「物事の本質に気づくのが早い」って言うんでしょうか、「そんなこと考えるのか!」って、他人が思うような人。
その一方で、だいぶ歳を重ねないと、こういう本質に気づかない人だって、星の数ほどいるわけです。(若干26歳の僕からしてみても、「なんでこれに気づかないの?」と疑問に思う、人生の先輩は沢山いらっしゃいます。)
(と言っても、何も自分が「頭がいい」とは思っていません)
こういう「二極性」を天秤に取ってみると、「同じ時間だけ生きているのに、なんでこんなに違うのか?」と、不思議で仕方がないのです。
(だから、という接続詞を使うのは変ですが、僕より短い時間しか生きていないのに、気づきが早い人、圧倒的な結果を出している人を見ると、単純に尊敬します。だって、自分が二十数年かかって気づいたことに、それより早く気づいているわけですから。何が「時間は平等だ」、と笑)
それに、「生きる時代」が異なると、「一分一秒の価値」も異なるかも知れませんね。
1960年の初頭、まだ新幹線が開通していなかった時代と、最高時速320kmで運転する新幹線を普通に利用できるようになった今日では、一分一秒に対する価値は異なるように思います。
そうだとすると、僕の親や祖父母の時代の「時間」と、情報化とスピード化が一気に進んだ今日での「時間」の価値は、驚く程違っているのではないでしょうか。(制限時間10分で何かをしろ、と言われた時には、現代人のほうがパフォーマンスは高いでしょう)
それに、同じ時代でも、その人が就く仕事といった「外的環境」で、時間に対する価値は異なってくるはずです。
もちろん、「時間は平等」という言葉を「1分1秒の物理的な長さは不変」と言うこともできるでしょう(相対性理論が出てくると、ややこしくなりますが)。
しかし、仮に「物理的な長さ」が同じであっても、それ単体を持ち出してどうこう、と言うことはできないわけです。例えば、1kmという長さは不変ですが、その距離を移動するのにかかる時間は、新幹線と自転車とカメだと、全然異なります。
「時間は平等」だから、どういうことになるのか、という、「AだからB」という論理的な繋がりを日常で考えてみるのは、面白いかも知れません。
0 件のコメント:
コメントを投稿