2015年4月15日水曜日

「チャンスの神様には前髪しかない」とはいうが

この言葉、自己啓発系の本やイベントでよく耳にしますね。他の機会でも耳にするような気がしますが、私は自己啓発系の言葉に聞こえます(それが良し悪し、ということはあまり考えないのですが、単にイメージがあるという意味で。)

私もこの言葉はある程度真実だと思っています。


ですが、その一方でこうも思います。


「チャンスの神様には前髪しかないだろうが、それでもあえてそのチャンスを逃してみる。時間が経った後で出逢えたのなら、それが「縁があった」ということだ」


と。

チャンスの神様を、絶対に逃がすまいと全力でタックルを受け止めますよね。


でも、その行動が正しかったかどうかというのは、後になってみないとわからない。チャンスの神様を捕まえたからと行って、それが次につながるかは分かりませんし、すぐにまた手放してしまわないといけなくなるかもしれません。

その一方で、ガツガツしなくても長続きする関係性もあります。別に「チャンスの神様が」なんて思ったことも当時はないし、逆に、前髪を掴もうとすることで、一生それを逃してしまうんじゃないか、と思ったことも沢山ありました。


なので、こちらに向かってくるものが自分に本当に価値のあるものなのか、意味のあるものなのか、というのは、時間が経たないと分からないのだと今は思っていますし、待つことも覚えました。


高校、大学の時は毎日会っていた友達も、卒業後は全く会わないほうが多いですし、逆に当時はあまり親しくなかった子にお世話になっていることも多いです。かならずしも、クラスや学部、サークルで一緒だったから長続きする、というわけではないのです。


本当に自分にとって必要な人なのか、必要なものなのか、ということは、時間が経たないと分からないものです。それは時間が教えてくれるものでもあります。


昭和の大棋士、大山康晴も「一度目のチャンスは見逃す」という言葉を残しています。


向こうからやってくるものがただの流れ星なのかハレー彗星なのか。そんなことを考えることも必要です。





0 件のコメント:

コメントを投稿