2015年4月1日水曜日

仕事に貴賤はあるのかないのか

昨日書いた記事が思った以上に多くの方に読まれたようです。
その中にはもちろん肯定的な意見もそうでない意見もあるのですが、否定的な意見の中には「仕事に貴賤はない」という道徳的な内容もありました。


仕事の貴賤って、いろんなところで耳にしますね。

仕事に貴賤はあるのかどうか、本当のところはどうなんでしょう。


もし仕事の神様がいるとしたら、もちろん「貴賤はない」と答えるでしょうね。


でも、この「仕事に貴賤はあるのか」という問い(もしくは「仕事に貴賤はない」という道徳律)に対してしっかりと考えないといけないことは、貴賤の有無ではないと思うのです。


本当に私たちが向き合わなければいけないことは、


「(仕事に貴賤はないとは思うけど)、私たち人間は様々な仕事を無意識のうちに格付けして貴賤を付けている」


ということではないでしょうか。

これは難しい問いだと思います。そもそも「仕事に貴賤はない」ということをあえて言語化している時点で、「仕事に貴賤はある」という内容に意識的に蓋をしようとしているのでは、とも考えることができます。

それに「仕事に貴賤はない」といっても、結局のところ人間は自分の目や脳を通して世の中を見て、解釈をしてしまいます。なので「仕事に貴賤はない」という客観的事実(例えば、50kgのコンクリートがある、ということ)と、「仕事に貴賤がある(又はない)と思う」という主観的意見(例えば、50kgのコンクリートを重い又は軽いと思うこと)は、まったく別の話として考えなければいけないはずなのです。

「仕事に貴賤はない」とは言いますが、それを言っている人だってまた人間です。

この文章を読んで「なにを考えているんだ、けしからん!」と思われた人もいるかもしれません。私もまた説教を食らうかもしれません。

しかし裏を返すと、そういう感情を抱くということは、世の中や自分に対してどこか僻みを抱えているということに変わりはありません。他人の仕事がどうれあれ、収入がどうれあれ、家庭がどうであれ、自分に関係がないと思えば、もしくはその人を本当に心からよく知っていれば、僻みや嫉妬なんてしないはずです。自分には関係ないと割り切れるか、素敵なこととして受け入れられるはずです。


つまり、人間は弱い生き物なのです。仕事に貴賤はないとは言いながら、どこかで人の仕事に憧れを抱いたりしますし、自分の過去を振り返って受け入れにくいことが心を沈めるのです。私だって人間ですから、そうです同じです。


今回の問いに限ったことではありませんが、本当に私たちが向き合わなければならないことは、自分たちは自分の目や頭を通して世界を見ているのであって、そこには「思考」というバイアスがかかっており、世の中を見たいように見て、いろんなものに勝手に意味づけをしてしまうのだ、という事実ではないでしょうか。仕事に貴賤があるかどうかが問題なのではなく、その問いをなぜ考えるのか、その原因はどこからくるのか、ということを、自分自身と向き合わなければならない筈です。


人間は弱い生き物です。そしてそんな人間が作る世界に幻滅をすることもあれば、また救われることもあるのです。

それすらも自分の脳を通して見た世界です。



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