2014年8月30日土曜日

〇〇があれば、田舎ほど素晴らしい場所はない。

私の地元は、結構な田舎に属します。

歩いて5分もしないうちに田園風景が広がり、四方を山に囲まれ(盆地なので)、高い建物はなく、季節ごとの虫の鳴き声を聞くことができます。

地元の鉄道は30分に1本以下の割合でしか動きませんし、大阪(梅田)に出るのに90分、京都に出るにも75分ほどかかります。(それでも、地元から関空と名古屋に行く高速バスが出ているので、ど田舎という程不便なところではないかと思います。)


こんな田舎で暮らしていて、「これがあれば快適に過ごせる!」というものが二つあります。今回はその紹介です。



①車

田舎にお住まいの方は共感して頂けると思いますが、田舎は車社会です。
今の生活では、買物や遊びにいくのに車の存在が必要不可欠です。
特に遊びに関しては、鉄道やバスなどの公共交通機関が通っていないような場所に行って自然を満喫することが多いので、これをするには車が絶対に必要になります。

学生時代は都市部にいて、電車も5分置きに出発し、自転車やバス、鉄道を使えば行きたいところはだいたい行けたので、地元に戻ってからはまた別の視点で「暮らし」を考えるようになりました。

この夏にした遊びは蛍狩り、川沿いでの涼(花火の下見を兼ねて)、ドライブウェイを使って夜景鑑賞、天体観測などで、全て車でしかいけない場所で行いました。車の便利さをまざまざと教えられています。


②割のいい仕事

田舎の仕事は、都会に比べて給与が少ない傾向にあります。
これは物価の違いという生活コストの差が影響していますが、逆に言えば、田舎でそこそこ食っていける仕事があれば、遊びに使える余裕もでてくるのでものすごく「暮らし」が楽しくなると思います。私は在宅で仕事をしていて、通勤もないので時間的な余裕があり、朝夕は近くを散歩することが多いのですが、季節の変わり目がダイレクトに感覚で分かります。また、人が少なくてストレスも感じにくいので、「田舎は好きなんだけど、仕事がないんだよなー」という部分を解決できれば、田舎で暮らしを営むことはもっと現実的になるんじゃないかなと勝手に思っています。(イケダハヤトさんも高知に移住されましたが、ある種のロールモデルになるのではないかと思っています。)

地方部と都会で、時給の差や給与の差がどれくらいあるのか厳密には分からないのですが、都会は何をするにもコストがかかるのと、精神力維持費のようなものもかかるので(田舎だときれいな空気やおいしい食材はほぼ無料/廉価で手に入ります)、都会の給与水準に近い状態を維持して田舎で暮らせれば、可処分所得も目に見えて増えるので良いのではないかと思います。
(田舎暮らし、20代前半〜半ばで月の収入が20万円あれば、余裕は結構あります)


というわけで、最近田舎暮らしに必要なのは「車」と「割のいい仕事」なのではないか、と思うのでした。

素晴らしいのは世界か、それとも自分か

世の中には人の心を動かす素晴らしい芸術や料理があったり、アーティストがいたりします。

超大物のコンサートで涙を流す人がいれば、美術館や料理屋で心の琴線に触れられることもあるわけです。


そんな時に、人は「アーティスト(や芸術)がすごい」と言います。

多くの人を魅了するアーティストや、その心を動かす料理人、芸術家、職人などがすごいことは紛れもない事実でしょう。

ですが、その一方で私はこうも思います。


「心を動かされるあなたもまた、素晴らしいのでは?」


一流の人間のパフォーマンスを見ても、心すら動かされない人という人というのは、多からずいます。「違いが分からない」であったり、「興味がない」という理由が挙げられますが、ある一つの事象を取っても、その見方、感じ方は人によって異なるのです。心を動かされる、と言っても、どう動かされるかも人によって違うのです。




「偶然は必然である」という考え方があります。

「あの時の経験がなかったら、私はいまここにいない」ということもあります。

そんな時に思うのは、素晴らしいのはシグナルを出してくれた世界なのか、それともそのシグナルに気づいたあなた自身なのか、どちらなのかということです。


素晴らしいのは世界か、自分か。一体どちらなのでしょう?


関連記事:全ての問題は「認識」にあり



2014年8月28日木曜日

本質的なことを語り合える相手がいる喜び

今日の午前中は、ご無沙汰していた人と半年ぶりくらいにお会いして、近況報告などをしてきました。

最近外に出ていなかったのですが、やはり同業者と話をすると新しい気づきが多く、お互いに分かりあえることも沢山あって有意義な時間を過ごせると感じています。

私の周りには、本質的な話(哲学的なことであったり、長い間不変のことであったり)を何時間でもできる人が何人かいるのですが、こういう人がいること、そしてこういう話ができることはこれ以上ない喜びだと思っています。

建前を取っ払って、その場しのぎではない、気をてらうわけでもない話を延々とする。そこには余韻があり、味わい深い時間が流れます。

日常にバタバタすることが多い昨今だからこそ、このような悠久の時間を過ごすことは一層貴重になるのではないかと思っています。


関連記事:「人生にティータイムを。人生をティータイムに。」

2014年8月26日火曜日

決断と意思決定に使うエネルギーを減らす

私たちは、日々何かの決断をしたり意思決定をしたりする瞬間に頻繁に出会います。

朝、今起きるかもう5分寝るか。

昼ご飯はどこで食べるか(定食屋?イタリアン?)

仕事帰りに本屋に寄ろうか、そのまま帰ろうか。


こんな決断に始まり、仕事やプライベートでの大きな決断まで、まさにいろんな「意思決定の瞬間」に我々は立ち会うわけです。

そこでしがちなのが、AでもBでもない選択をとる、言葉を変えると「意思決定を先延ばしにする」という意思決定をすることです。

これは時としては有効な場合がありますが、意思決定を先延ばしにすることでマイナスになることもあります。

それは、「取り巻く状況が変化する」ということ。
さすがに「今日の昼をどこで済ますか」ということは先延ばしにしようがありませんが、「再来月の休みはどこに行こうか」などということを、ある程度情報を集めながら決断を先延ばしにしてしまうと、例えば取ろうとしていたホテルが埋まっていたり、列車が取れなくなったり…ということになって、また一から考え直さないといけなくなる時があります。

これってものすごい損失です。ある程度時間をかけて調べたデータがまったく役に立たなくなるわけですから。


安い航空券を探していてたまたまヒットした時に、「行こう!」と思ってすぐさま購入できるかどうか、ということも、その人の意思決定のスピードの差です。



ただ、意思決定をするのにはものすごくエネルギーが必要なんですね。
特に、大きなお金が動く時や、先のことで不確定要素の強い場合は、「意思決定をしたことで失うもの」も相対的に大きくなるので、大変ですよね。お金を使うと、お金は必ず無くなります。3ヶ月後の4連休の予定を埋めてしまうと、その時に他の大事な予定が入っても動かすのは厳しいです。誰だって、ヨーロッパまでの往復8万円の航空券を初めて見つけた時に、ポチッとできるはずがありません(笑)

そして、これに必要なエネルギーが大きいが為に、私たちは「意思決定をしない」という意思決定をしてしまいがちです。ただ、それによって失ってしまうもの(機会/チャンス)もあるわけでして。このあたりの見極めは簡単なことではありません。


じゃあ、どうすれば意思決定がスムーズにできるようになるのかといえば、「意思決定に必要なエネルギーを減らす」ことによってしか無理なんですね。そのためには、比較的リスクの少ない場合で、すぐに意思決定をすることを繰り返すのが良いです。
「今日の昼は定食屋かそば屋か?」
「お店ではどの席に座ろう?」
「注文するのはかけそばかてんぷらそばか?」
「食後の飲み物はコーヒーか紅茶か?」

こんなところから「意思決定をする」訓練を重ねていると、だんだんと直観が磨かれます。なぜなら、これらの意思決定には殆ど理由がいりませんから、考えることなくいろいろと選ぶことが、「エネルギーを必要しない」ことになるわけですね。

そして、こういう選択の規模を徐々にあげていく。週末にどこに行くか、どんな服を買うか、など、ある程度エネルギーが必要な(ある程度お金や時間がかかる)ことを、できるだけパパッと決めていくようにするのです。

これを繰り返していくと、他人から見ると「おおきな決断だよな〜」というものでも、自分にとっては紅茶を選ぶかコーヒーを選ぶか、ぐらいのものでしかなくなります。「ここにとどまるか、新しい環境で生きるか」を、紅茶かコーヒーか、ぐらいのノリで選べたら面白いですよね(笑)

ですが冗談抜きで、決断をためらわずにできる、というのは大きな強みですよ。

文豪や偉人の作品よりも対談集のほうが好きな理由

ふと、自分は偉人の作品よりもその人の対談の方が好きだということに気づきました。


例えば司馬遼太郎。
今まで「燃えよ剣」しか読んだことがありません。
対談集は読んだことがありませんが(笑)、図書館や本屋にある多くの対談集を見ると、こちらのほうを手にしたくなってきます。

例えばこういうもの。


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他には宮崎駿。
宮崎作品は一通り見ていますが、作品そのものが好きというよりは、その裏話や、作品に込められた監督の思いを知りたいと思う人間です。


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↑これらは厳密には対談集ではありませんが、宮崎さんの考え方、哲学がふんだんににじみ出ているのが好きなのです。



対談集というのは、その人の考え方がストレートに分かるからとっつきやすいのと、そこで得る共感や反感がはっきりとわかるから好きなのです。
あとは恐らく、口語でのテンポの良いやり取りが自分のペースにあっているのでしょう。

作品は作品として素晴らしいですが、その中だけで完結してしまうことが多いので、あまり好きではないのだと思います。

今読んでいるのが、米原万里さんの対談集。
米原さんの翻訳書物は一切読んだことがありません。でも対談集の方がとっつきやすい。

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やはり、作品が出しているメッセージよりも、その作者が人生を通して持っている哲学や生き方、問いに興味があるのだと思います。それは実際に面白いことですし。

結局は「人」が好きなんだと思います。

2014年8月25日月曜日

通訳案内士試験を受けて(感想など)

昨日は通訳案内士試験を受けてきました。

この資格があれば、外国人旅行者のガイドをして報酬を頂ける、というあの資格です。

私は4年前にこの資格を初めて受験をして不合格、翌年も受験をして再度不合格だったので、その時は一度諦めたのですが、今回TOEICスコアによる試験免除ができるということで、もう一度受けてみようと思ったわけです。

(ちなみに、一次試験では外国語+地理+日本史+一般常識、の四科目をそれぞれで合格ラインを突破し、かつ二次試験で口頭試問を受けて合格すると晴れて「通訳案内士」の資格が認定されます。一回目は英語のみ不合格、二回目は社会科免除で受けるも再度英語が不合格、でした。仕事柄恥ずかしい話ではありますが…)


今回は、TOEICで840点以上を取れば英語は免除なので、今年4月に一発受験でクリアをして、まだなんとかなりそうな社会科三科目だけで受けられるようにしました。

以下、勉強や当日、また資格に対する感想などを書き連ねます。


①勉強方法
今回は社会科三科目だけに絞って書きますが、この勉強がなかなか簡単ではありません。試験要項では、高校で習う地理B、日本史B、現代社会の範囲に時事問題を加味して出題、とあるのですが、範囲や内容が偏ったり、現代社会(一般常識)に関してはややマニアックな問題(アニメ、鉄道、飛行機、お酒や茶・食事についてなど)が出るので、「この範囲を勉強すればOK!」というのはほとんどありえません。

私の勉強方法や、使った参考書は以下の通りでした。

・地理
基本的に勉強せず。これは、幼少の時に時刻表と地図ばかり眺めていて、おおよその地名や地理、特産品などが頭に入っていて、力を入れなくても合格点近くの点数は取れる、と考えているからです(前回の受験もそうでした)。

もし買うとすれば、「旅に出たくなる地図(日本)」でしょうか。

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これを読むと地名、名所、特産など、殆どの情報が網羅できるので良いかと思います。(ただ、今年は気候に関する問題が多かったので自分の出来は微妙です…苦笑)


・日本史
個人的に課題だったのが日本史。高校で世界史を取っていて、日本史はかじりさえもしていないのでどうやって勉強するか、というのが問題でした。
使った資料は、図表系(例えば山川出版のもの)↓
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でビジュアル資料に目を通し、かつ用語集↓
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で、わからない単語をしらみつぶしに調べて覚える、ということをしました。

社会科全てにいえることですが、時間があまりない場合は数年分過去問を解いて(「通訳案内士 過去問」などでヒット)、そこから傾向を自分で把握して、ある程度ポイントを絞って勉強するのが良いかと思います。(例えば日清・日露戦争前後や徳川15代将軍のおこなったこと、等)


・一般常識
これが一番のクセモノです。
日本史と同じく用語集↓

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は初受験の時に揃えましたが、正直高校「現代社会」の範囲を広く逸脱しているので(笑)、こちらも過去問を解いて、かつ日頃ニュースや新聞を通していろんな言葉、情勢にアンテナを張っておくことが大事なのではないかと思います。


勉強方法については、他の資格と同じように学校がコースを開校していますが、受験内容だけ見れば、大きなお金を払ってまで手に入れるものではないと思います。そもそも、仮にこの資格を取って仕事をしたとして、取得にかかったコストにペイするのかと言えば、すぐには回収できないと思うので、この資格については自分で情報を調べて、自学自習でするのが一番コストパフォーマンスが良いかと思います(そもそも、過去問で分からないことがあればググればだいたいわかります。)


②受験当日
印象としては、受験者の年齢層は高めでした。20代の人は何割いただろう…というくらいの数でした。複数の教室に分かれていたので全体値は分かりませんが、私がいた教室内では片手に収まる程だったと思います。

あとは、よくわからない壮年集団がいて、教室で挨拶を交わしていて「この人たち一体何者?」と考え込んでしまいました。(日頃のサークル仲間か、受験勉強を一緒に頑張った仲間なのか…)

今回の出題範囲は、例年より内容が偏っていたと思います。難易度は高くなっていたのではないでしょうか。


③その他諸々
そもそも、というか第一に「この資格を仕事に絡めようとする人はどれくらいいるんだろうなあ」と思いました。

資格と言ってもピンからキリまでありますが、例えば公認会計士の資格だと、殆ど全員が死に物狂いで勉強して臨む筈です。

この資格は、資格を取ってもそこまで安定しないものなので、(国は2020年五輪に向けて資格取得者を増やしたいらしいですが)どれだけの人が本気で仕事をしたい、と思っているのかは分かりませんでした。
(かくいう私も、かつてはこれを本業にと思っていましたが、今はいろいろ変わって、これをスパイスにして仕事に絡めていければ良いなあ、ぐらいにしか思っていません。)


あと、「五輪に向けて資格取得者を増や」しても、それが全て仕事に結びつくわけじゃないし、どうなんだろう?とも思いました。(国としては、受験料などでお金が入るのはうれしいので、そのあたりを考えているのでしょう。ちなみに聞いたところでは、今年から受験料が上がったらしいです)
自分が資格試験を行う側だったら、資格保持にプレミアを持たせたいから本当に少数精鋭を選ぶような仕組みにするなあ、と思いました。


2014年8月21日木曜日

小さな実験を繰り返す

三ヶ月ほど前にBLOGOSに掲載された、イケダハヤトさんの寄稿が興味深かったです。


「なかなか飛び出すことができない」残念な人に共通する3つの欠点


この中で特に、「日々細かい実験を繰り返す」という表現がありましたが、この表現が良かった、というかむしろ、これを実行することってものすごく大事なことだと思うんですよ。

生きていると、世の中分からないことだらけなわけです。というよりも、「〇〇は▽▽だ」のように、あたかも結論が出てしまったかのようなことを、実際に取組んでみたこともないのに言われることが多いです。

でも、本当にそうなのか?
以外と実践できる方法があるんじゃないか?

ということをあなたは考えられますか、ということです。


例えば…

・一月生活するのにいくらぐらい生活費がかかるのか?
・田舎で生活してみたいけど、コストを下げて生活できないか?
・ゲストハウスで生活をしつつ、週5日会社に行くことはできるのか?
・週3日仕事をするだけである程度生活できる費用を稼ぐことはできるのか?
・ネット通販だけで毎月必要なものを賄えるのか?


などなど、(上の例は生活、生きることに直結する内容が多くなっていますが)「常識で考えるとこうだけど、案外ああすると解決策があるんじゃないか?」と、知恵を働かして実際にやってみる、というのは大事なことです。失敗しても経験になりますし、そこから新しく判断できることも増えます。


人間は誰しも、多かれ少なかれ日常生活に不満を持ったり、不安を抱いているわけです。じゃあ、それを少しでも改善するために自分の頭を働かせて、大きく失敗しない程度の規模から始めてみることは大事ですし、必要なことです。(頭で考えた時に、「だけど〇〇だしなあ…」と否定から入ってしまうのであれば、それは黄信号)


ここで、いきなりリスクを背負って何かをすることは大変危険です。いきなり何かの事業を始める、などですが、まずは実験的に「ここまでなら大丈夫」というラインを自分で決めて、そこから試しに取組んでみる、という順序が大切になってきます。


失敗したら、「失敗しちゃった。てへぺろ」とか心の中で思えば言いわけです。命取られるわけじゃないんですから。


こういう経験を、身を固めるまでにどれだけしておくかというのは大事になってくると思います。世の中では「あれはこうだ!」みたいに豪語して「それが正しいんだ!」ということをあたかも万人にあてはめようとしてくるトンデモ人間がいますが、そもそもその人とあなたが生きている時代は違うわけで、価値観も違えば方法も違う。更に、身の周りの環境だって違うわけですから、「絶対唯一の解」なんてないわけです。Aさんにとっては解になりえなくても、Bさんにとっては最適解になることだってあるのです。

言い訳して尻込みする時間と頭があるのであれば、それを90°でも良いので方向を変えて使ってみましょう。そもそも最適解なんて、一人一人違うのですから、やってみないと分かりません(何も考えずに取組むのはxですが)。

そういう経験をどれだけ積んだか、で、いざというときに出てくるアイデアや解放はより洗練されて実用的なものになるはずです。


海外就職、海外生活、田舎暮らし、複業…。なんでも良いですが、大きく失敗しない範囲でどのように取組めるのか、ということにも頭を使いたいものです。

2014年8月20日水曜日

在宅で仕事をしていてよかった、と思う瞬間

収入が不安定であることなど、個人事業主は大変な部分が多いですが、今回は家で仕事をしていて良かった、と思える瞬間を幾つか紹介しようと思います。


①満員電車に乗らなくて済む



在宅ワークで一番ストレスがかからないのは、通勤時間がないこと、特に満員電車に詰め込まれなくて良いことでしょう。

電車に揺られている時間は、できることが限られていますし、満員電車に乗るだけでヒットポイントが削られ、職場に着いた時は既に75%にパフォーマンスが落ちてる…なんてことになると、なんのための通勤なのか分かりません。

余計な所にストレスをかけず、のびのびとしていられるのは在宅ワークのメリットです。


②昼食の時間を自分で決められる



オフィスだと、昼食休憩は○時〜○時と、たいてい決まっています。(たいていは1時間)

ただ、1時間だと時には余裕がなくなる時もあります。
外食の場合だと、店に行く時間、そして店で待つ時間も合わせたら食事を取る時間は限られてしまいます。
昨日の記事(「表に出ないことにこそ気を遣いたい」)でも書きましたが、せめて昼食だけでも、週に何日かだけでも、ゆっくりと話をしながら食事をする時間を仕事の時にも持ちたいものです。
在宅で仕事していると、昼食を始める時間を勝手に決められますし、1時間以上ゆっくりと取ることもできます。



③昼寝ができる



昼食を取った後は、眠くなりますよね。
オフィスにいると、眠たくても就業時間中は仕事をしないといけません。
今は「昼寝時間」を設けている会社もあるようですが、所詮デスクに顔を埋めて寝るだけなので、身体にも良くないと思います。(というか、仕事というオンの場で15分でも寝られるのだろうか…)

家であれば、布団であれベッドであれ、完全に横になることができるので、お腹がいっぱいになって眠たい時はここで15分でも30分でも、寝るようにしています。(寝た方が、そのあとのパフォーマンスが良くなります)


④仕事に行き詰まったら散歩ができる



地元は田舎で、周りに田畑があります。
長らく、朝と夕方に散歩をするのが日課となっていますが、緑に囲まれた中を風に吹かれて歩いていると、悩み事も軽くなりますし、新しいインスピレーションも湧いてきます。気分転換に最適で、夏は良い汗も流せます。

根を詰めて仕事をして疲れた時も同じように外に出てくると、それだけで疲れがだいぶとれます。

オフィスにいると、就業時間内は外に出にくいですからね。


⑤仕事に集中できる

会社員をしていた時に大変だったのが、電話の取り次ぎです。
小さな会社だったこともありますが、自分以外の担当者への電話と取次ぐのは自分の仕事がぶつ切りになりますし、全然仕事が進まず嫌でした。

今は、基本的にやりとりはメールだけですし、本当に集中したい時は電話をサイレントマナーモードにして着信に気づかないようにもできるので(滅多にしませんが)、仕事に集中できるのは良い点かなと思っています。




思いつくままに書いてみましたが、他にももっとありそうです。大変な部分が多い、という枕詞は付きますが、それでも在宅で仕事をするメリットは十分にあると思っています。


2014年8月19日火曜日

表に出ないことにこそ気を遣いたい。

ファッションの世界では、「表に見えないアイテムに工夫をする」ことが、洗練されたファッションをするための鉄則だと聞いたことがあります。


ビジネスシーンでいうと、男性の靴下。


女性については詳しくありませんが、ジャケットの裏地にドットを取り入れたものなどがあるらしく、「見えない部分」にもこだわりを持つといのは大事なことです。



そこで今回提言したいのが、「食事にも気を配ろう!」ということ。


時々、ふと考えるんです。


たとえば、ものすごく仕事のできるビジネスマンがいるとします。

顧客に対して最善のソリューションをバンバン提案して、社内外からも信頼されている、いわゆる「頭の切れる」人材。

仕事はもちろん、プライベートも大変充実している。


そんな人が、ほとんどありえないとは思いますが、毎日カップめんやチェーン店での牛丼、コンビニ弁当ばかりをほおばっていたら、その「できる感」が一気に吹っ飛んでしまいそうではありませんか?

10点差で勝っていても、これだけで11点取られてサヨナラ負けを喫してしまいそうなくらい、重要なことだと私は考えています。


これはあくまでイメージの話なので、人によっては何も感じないかもしれません。


ただ実際のところ、仕事をしていると、こういう状況に身を置いてしまう人は多いのではないでしょうか。


クライアントを訪ねる間のわずかな時間で、ファーストフード店で昼食を済ませる。

ため込んだ仕事が処理できないので、1時間の昼食休憩の際も近くのコンビニで調達したサンドイッチを簡単に済ませて、仕事にいそしむ。

口から取り込むものは他でもない私たちのエネルギー源なのに、何を取り込むのか、そしてどうやって取り込むのか、ということを意識していない(意識できない)人が多いように思います。


いわゆるプロのスポーツ選手は、食事や身体の状態にものすごく気を遣っています。彼らにとっては特段、「身体が資本」であり、そのパフォーマンスを発揮するためには、食事や普段のコンディションの調整がキモになるのでしょう。

ですが、それはどんな仕事をしている人にとっても同じことではないでしょうか。私のように家に籠って仕事をする人も、外回りの人も、経理も総務も画家も。

人間、取り込んでいないもの以上のアウトプットをすることはできません。そうであれば、できるだけ仕事で良いアウトプットをするためには、何を体内に取り込むか、ということも考えるべきことではないでしょうか。


食事というのは、イメージ(というか「気」)の問題であることが大半なので、個人差はあると思います。それでも私は、少し良い値段のするものを口に入れるだけで満たされた気分になりますし、そこから良い仕事に繋がるようにも思っています(結局は「気」の問題なのですが、この「気」がとても大事)。

反対に、ファーストフードやカップ麺をささっと済ますと、なんだか申し訳ないような気にもなりますし、最近は以前よりも身体の調子が悪くなるような気がします(これも結局「気」の問題)。


ここでは、具体的に何を食べよう、何を食べてはいけない、ということを書く気はありません。
ただ、一手間かけたものを少量でもいいから口にすること、それ自体が「余裕」の現れですし、時間をかけて食べる、食事の時間を大事にする、ということもまた「余裕」を生んでくれます。
(裏を返したら、そりゃ長時間、食事もテキトーに済ませて仕事をしていたら、パフォーマンスも下がるわけです。)


別に、仕事に限ったことではありません。

口にするものに気を遣えるか。そして、食事の時間が心の余裕を感じ取れるものになっているか。


ファッションにしても食事にしても、目に見えない、人からは分からない、表に出ないことにこそ、真剣に気を遣いたいものです。

2014年8月18日月曜日

人生にティータイムを。人生をティータイムに。

この前、大学の後輩とお茶をしたのですが、その時に聞いた内容で目から鱗が落ちるような、目新しい話があったんです。

メモも取っていないので完全にうろ覚えなのですが、後輩曰く、


僕はお茶が好きなんです。

コーヒーは「勤勉」と結びつきますが、お茶は、その更に先にあるような気がする。茶の湯の世界だってそう。

「コーヒー」と聞くと、なぜか仕事の商談のシーンを思い浮かべませんか?新聞を広げている時に飲んでいるのは、紅茶ではなくコーヒーのような気がします。

僕は、その「勤勉」から離れた茶の世界が好きなんです。



確か、こんなことを言っていて(確か、本からの引用もあったのですが記憶に残っておらず…)、僕もなんだか、似たようなことを、言語化まではできていないけれど考えていたんだなあ、ということに気づいたんです。

後輩自身も、この考えに論理的根拠がしっかりとあるわけではない、と言っていました。ただ、「コーヒーは勤勉と結びつく。お茶はそうではない」というのは、言われてみればたいへん肚に落ちるのです。



厳密にいうと、「コーヒーはオンとオフの両方を包含するが、お茶はオフのみを包含する」のかもしれません。確かに、茶の湯の世界は完全に「仕事」とは離れています。中国に行った時も、工芸品の世界を通してお茶の世界に足を少しだけ踏み入れましたが、お茶台の上に小さな湯呑があり、そこになんどもなんどもお茶を注いで、時間を忘れていろんな話をしている富裕層の姿が印象的です(中国語だったので、もちろん何を言っているのかはわかりませんでした)。これはイメージですが、ヨーロッパでも「ティータイム」といえば、紅茶にケーキなどを添えて、何時間も哲学的なことを延々と話しているのではないでしょうか。
(あとは、コーヒー廉価で販売されているが、お茶は比較的単価が高い、ということもヒントになるかもしれません)


この話を聞いて、はたと気が付いたのです。私はゆくゆくは、この世界に足を踏み入れたいのではないかと。

過去に書いたこの記事(「僕が究極的にしたいこと」)で書いていたことは、まさに「お茶の世界」なんじゃないだろうか。


こういう考えが知らないうちにおのずと芽生えたのは、ヨーロッパを回ったことが大きいのかもしれません。かつてヨーロッパを10カ国回った時に、街中にあふれる喫茶店のテラス席に座って、のんびりと話をする光景にでくわし、そんなゆっくりとした時の流れに身を任せることにあこがれを抱いたのかもしれません。(北欧、スウェーデンには「フィーカ」というお茶の文化があるようです)


そして、こんなことにあこがれを抱いたのも、なんでも周りに気を使い、かつあくせく生きている日本人を見て、抵抗が芽生えてしまっていたのかもしれません。列車が3分遅れただけで車掌が詫びるなんて、やっぱりおかしいですよ。(たぶん、お茶の世界に興味を持ったことと直接関係はないと思いますが…)


私は、あまり人と話すのが得意ではないんですが、嫌いではありません。人を笑わせるような「すべらない話」は全然できないので願い下げですが(笑)、もっと深い、生きることの意味であるとか、人生の本質とか、宇宙の話や認識について、という、まったく生きていく中で役に立たないようなことを、できれば二人か三人で、時間が経つのも忘れて話をしたいです。
(やはり、僕は俗っぽいことができないんだろうと思います。)



ですが、こういう「何も生み出さない」(でも、仕事以上に何かを生み出しそうな)時間を過ごすことが、案外生きる上で一番贅沢なことなのかもしれません。そこに功利主義はありませんし、起業家マインドも必要ありません。そろばんをはじくこともありませんし、駆け引きもありません。こんな世界こそが、人間にとってもっとも尊い場所であり空間なのではないか。



そのためには、私たちの手元に一本の急須が必要です。湯呑が必要です。一杯のお茶を片手に談義を交わす、最高に贅沢な時間を過ごすことを忘れることなく、そして少しでもこんな時間を増やして、私は生きていきたいのです。


人生にティータイムを。人生をティータイムに。

2014年8月16日土曜日

本物と一流の違い

数ヶ月前に耳にして以来、未だに私の中で答えが出ていない問いです。


ある講演会で登壇をされていた方が「本物と一流は違うからね」と、されりと言われていたのですが、そこで答えは教えてくれませんでした。

「本物」と「一流」の違い。

以前考えたのは、「本物の定義は人によって異なるが、一流の定義は万人に共通である、ということなのかな?」ということですが、あまりしっくり来ず、これは違うと思いました。

最近思うのは、「一流は世の中に出てくるが、本物は現れない」ということです。


例えば、プロ野球選手やサッカー選手などは、イチローや中田英寿など、多くの一流選手がいて、スポーツの場以外での活躍もされています(いました)。

他にも、いわゆるメディアが捉える世界は、ビジネスであれなんであれ、次々と人が目の前(テレビの前)に現れてきます。これが一流。


そして本物は、決してこういう場には姿を現さない。

私の知り合いに経営者の方がいて、詳しい話は聞いたことがありませんが、とても小さい会社であるにも関わらず、売り上げはすごいらしく(個人的な尺度から判断して、ですが)、こういう人が「本物」なのかな、とふと思いました。

他にも、工芸品であったり宗教であったりお茶であったり、こういう世界は「世間から脚光を浴びない」ので、ものすごい人がいても多くの人は気づきにくい。

これが本物ではないか?というのが、現時点での結論です。


皆さんはどう思われますか。

2014年8月15日金曜日

私に会いに、奈良に足を運んでくれる人が増えてきました。とても嬉しいです。

最近、「藪さん、会いましょう!」というメッセージと共に、わざわざ奈良まで足を運んでくれる人が増えてきました。関西の人も関東の人もいます。(他の地域の人はまだいかな…)

これ、純粋に嬉しいです。だって私、奈良でサロンのような人が集まるスペースも持っていませんから、別に「わざわざ会いにいきますよ」と言われる道理が、見当たらないんですね。



大抵の場合、その街を訪れる理由は「仕事」か「旅行」のどちらかでしょう。商談のために取引先があるビルを訪れたり、世界遺産や温泉、おいしいご飯を食べに旅行に行ったり、ということは多くあります。私も、純粋に人に会うためにどこかの街に行くことはあまりなく、仕事とくっつけたり、旅行と合わせたりすることが殆どです。

もちろん、相手が関西圏だと隣の県でしたら移動はしやすいですし、関東から来られた方も、仕事の関係で奈良に予定があったようです。ですが、それを差し置いても、自分の故郷に知り合いを招くのは、誇らしいと同時に恥ずかしくも思ってしまいます。


私も、奈良に戻ってから知っているお店は増えましたし、そういう所に遠方からの客人を招いて一緒の時間を過ごすというのは、何にも変えられない嬉しさを感じます。奈良は近隣の府県とは違い、時間もゆっくり流れていますし、人も少ないですからゆっくりと時間を過ごすには最適の場所だと思っています。

私はどちらかというと、自分が旅をする側の人間なので、もてなすよりももてなされる時の方が圧倒的に多いです。ですが、人をもてなしてみて分かったのですが、もてなすにもセンスや調査がいりますし、簡単ではありませんが楽しいんですね。なので、これからも奈良に足を運んでくれる方には、自分ができる最高のおもてなしを振る舞いたいと思います。

生きることは、一人称単純現在です。

知らず知らずのうちに、あるがままの姿に余計な意味を付け加えてしまっている時はありませんか?

私たちの口癖はえてして「〜があれば」「〜したい」「〜だったらよかったのに」「〜できれば」などであることが多いようです。英語で言えばifやwant、canなどの条件節や助動詞がくっついていることになります。



ですが、こんなことを嘆いても何も始まりません。私たちが立っている、向き合っている世界というのは紛れもない「〜がない」「〜できない」「〜ではなかった」という、現実世界なのです。できない理由は様々あるでしょうが、大の大人がそれをいつまでも追い求めることは、傍目にはみっともなくも見えてしまいます。


余計なものが周りにくっついてしまうと、本質に近づくことは難しくなります。ものの見方を変えれば良い方向に向けるのに、それすらできなくなってしまう時もあるのですから。


「人生は楽しまないと損」と言う人がいます。「人生は楽しんだもの勝ち」だと言う人もいます。ですが、これは本来の姿なのでしょうか?あるがままの世界を見て「人生は楽しい」と気づけないのであれば、それは心が死んでいる証拠かもしれません。「人生は楽しまないと損」「人生は楽しんだもの勝ち」という言葉の裏側にある精神世界はどんなものか?


生きるということは、他でもない一人称単純現在なのです。そこに仮定法や条件節、人称の変化や余計な助動詞の付加はありません。現在進行形でも、過去形でも未来系でも完了形でもありません。


生きることは、一人称単純現在です。

ドロップアウトをしたのはどちら?

お盆ですね。


私は2年前のお盆明けに、いわゆる「社会復帰できなくなり」仕事を辞め、一時期海外で外籠もりをした後、偶然が重なって個人事業主として仕事を始めました。


いわゆる「社会」からドロップアウトをして、もう2年も経とうとしているんですね。いやあ、光陰矢の如しです。


ただ、最近ふと考えました。


果たして自分は、ドロップアウトをしたのか?と。

幸いなことに、最近は定期的に仕事を頂くことが増えて、いわゆる「社会」との関わりはある程度持っています。

更に、会社員時代よりも遊ぶようになりましたし(単純に時間が増えた)、国内も海外も足を伸ばすことが増え、確実に人生の自由度が増えました。(ただ、自由を手に入れる中でトレードオフになったことも沢山あるので、大変な部分も多いです。)


ですが、思うのです。


自分は、ある程度自分のしたいことを仕事でもプライベートでもできているし、未熟な部分は多いですが、毎日が楽しいですし、不安ももちろんありますが、自分が望んだような世界に生きることができ、望んだようなことをしています。

果たしてこれが、本当にドロップアウトなんだろうか。


もしかすると、自分の頭で考えることをやめて、多数派と同じ流れに身を任せているほうが、自分の人生をドロップアウトした、とは考えられないだろうか?


人の生き方にとやかく口出しができる資格はありません。


ですが、ものごとは180度視点を変えるだけで、こんなにもコペルニクス的転回になりうるのではないでしょうか。



今一度、問いかけてみましょう。


ドロップアウトをしたのは私でしょうか、それともあなたでしょうか。

2014年8月12日火曜日

教養を深める

大学時代の後輩とお茶をしてきました。

とある、北欧喫茶のお店でした。北欧にゆかりのある喫茶店は聞いたことがなかったのですが、すっかり虜になってしまいました。


話す内容もまた面白く、

神道と仏教の違い

外国人から「日本に来てみておくべき有名な絵画は?」と聞かれた時に何と答えるか

小林秀雄や丸山真男について

好きな文豪や美術家

などなど、「ザ・ティータイム」のような時間を過ごしました。


最近、こういう時間の至福さを一層感じるようになってきたのですが、それはもしかすると、心に余裕が出てきたからなのかもしれません。
「知りたい」という好奇心が強くなっていきます。

彼も私と考え方が似ていて、そういう人とこういう話を延々とできることは、幸せなことです。


そして、「やはり教養は大事だ」という話になりました。


自分の国の歴史

世界の歴史

広く芸術(文芸、絵画、音楽)

様々な雑学、そして哲学。


とりとめのない話であることに間違いはありませんが、これに「価値を見いだすか」ということが大事である。そして、それがレイヤーを作り出す。

ティータイムを楽しむ人間になりたいです。
関連記事:僕が究極的にしたいこと

人の行動は、潜在意識が顕在化しただけです。

大学時代に耳にした言葉で印象に残っているのが「人の行動は、結局のところ潜在意識が表に現れているだけ」というものです。

例えば、転職したい、独立したい、とずっと口にしているにも関わらず、一向にその気配のない人がいるとします。この考え方を当てはめると、その人は(どんな理由であれ)「この仕事を続けたい(辞めたくない)」という潜在意識が自分の中にある、ということです。


この考え方は面白いです。「人が口にしたことではなく、行ったことでその人を判断しなさい」という言葉もありますが、「言動不一致なんてけしからん!」と怒るよりも「そっか、あの人は潜在意識にこういうものがあるんだな」と、客観的に見て考えてみるとそれはそれで面白いです。

確かに、周囲の環境に愚痴を言っている人に限って、行動は起こさずそのまま流れている場合が多いように思います。そして、起業であれ転職であれ、本当にしたい人は既に始めています。

行動を起こさない人はえてして「お金がないから」「スキルがないから」などの理由を並べてバリケードにしていますが、反対側を見ていると、両親にも反対されたにもかかわらず自分の道を歩んでいる人もいるわけで、前者を見ていると「心のどこかでその道を選ぶことを嫌がっているのか、今の環境に満足しているのではないか」と考えることも十分にできます。

他人でも自分でも、行いを通してその人の潜在意識がどんなものなのかを知ることができるのです。

2014年8月11日月曜日

口約束をどれだけ果たすかが、今後とても大事になります。

最近感じることは、「人って口約束が多いなあ」と言うことです。

仕事でも「今度よろしくお願いします」ですとか「検討させて頂きます」という文言をずらりと並べられて、結局は発注はされないというオチが90%以上の確立で起こることは最近知りましたが、プライベートでも、「またお話ししたいです!」「お茶しましょう!」という声をかけてもらうことこそあれ、それが実現したことは恐らく5回に1回あるかどうかです。


果たしてこれらの文言が、本音か建前かは私には分かりません。私はもともと建前を連ねることが大のニガテなので、口にすることはほとんどが本音です(深謀遠慮の嘘や方便は、何度か使ったことがあります)。今まではてっきり、相手も同じように言葉を口にしているとずっと思っていましたが、どうやらそうではないらしい。恐らく世間では、私の思っている以上に建前でごまかしをすることが多いようです。

ただ、それはとても残念なことでもあります。声をかけてくれるということは、仕事でもプライベートでも「自分のことをどれだけ気にかけてくれているか」ということを測る指標の一つになるわけですから、口先だけで結局行動に移さない人は(どんな理由があれ)「ああ、その程度の人間なんだな」と思わざるを得ません。


で、私はどうしているかといいますと、「口約束はできるだけ果たす」ようにしています。していますが、なかなか果たせないこともあるわけでして、これは難しいことでもあるのですが。

例えば、私が関西に住んでいて、ある友達が東京にいるとします。その子の誕生日にメールをして、近況報告のしあいになり、「今度お茶しよう!」という話になったとします。その子はなかなか関西に来ることがないから、私の方から「東京は遠くないうちに行くと思うから、その時に連絡するわ」と、含みを持たしてメールをその時は終えたとします。

で、この後どうするかというと、次に東京に行った時は必ずその子と会う予定を作ります。仕事で行くことになれば、その次に大事な予定にして、万難を排して予定を組み込みます。それくらいに「口約束を果たす」ことにはこだわっています。実際に、東京だけでなく、世界各地にいる友達には、その地に足を運ぶ機会があればコンタクトを取って、会えるかどうかを聞いてみる。そして、その地に赴く時はお茶でも食事でもお酒でも、何らかの機会を作って会うことにします。もはや自分の性といっても良いかもしれません。


なぜここまで、「口約束を果たすこと」にこだわっているかといえば、それはやはり、自分が作った約束だからです。私はいろんな人に借りを作っていますし、彼ら彼女らの存在なしには生きて来れませんでしたし、直接会うことで新しい何かが生まれるかもしれません。あと、口先だけで「会いたい」などと言っておきながら、それすら果たせないかっこ悪い人間にはなりたくもありません。私は、人から声をかけてもらうとやはり嬉しいですし(これは人間共通の感覚でしょう)、ただ「自分が嬉しいと思うことを人にし」ているだけなのかもしれません。

だって、声をかけてもらう、興味を持ってもらうことは本当に嬉しいことですからね。自分のことを気にかけてくれる人がいるように、自分もいろんな人のことを自然に気にかけるようになりました。


なんだか今は、誰もが「自分が、自分が」となっている世の中ですが、こんな世界だからこそ、自分ではなく相手のことを考えるだけで、他の人とは差異が生まれるわけです。仕事でも「相手のことを第一に考えなさい」と言われますが、これは仕事以外の場面でもあてはまりますし、この「当たり前のこと」をしていない人は思った以上に多いです。Facebookの書き込みなどを見ていると、余計にそう思います。(それだけ、自分のことをアピールしないと振り向いてもらえない時代になったのであれば、それはそれで寂しいことですね)。
関連記事:聞き手のいない世界




私はこれからも、口約束を果たして、果たすために生きていくでしょう。自分に嘘をついていないか、他人に嘘をついていないか。他人を期待させておいて地に落とすのは、たとえ私がされたとしても、私は絶対に相手に対してしたくありません。それが結局は、その人の人となりを作っていくことになると思います。

これからも自分のスジを通して、私は生きていきます。それほどに私は、人に支えられて、また人が好きなのです。

2014年8月10日日曜日

将来から逆算をして今を生きることは、もうやめにしました。

大学時代や、卒業をしてからも私はよく「将来から逆算をして今を生きることが大事だ」と教えられてきました。

「教える」という言葉を使うと語弊があるかもしれませんが、周りの友達や先輩、職場では上司や他の職場の「デキる」人たちが、揃ってこのことを口にしていました。

何も、そのことを全面的に否定をするわけではありません。ただ、自分が今まで生きてきた中で、その考え方は自分には合わないと思ってきていましたし、最近は尚更、様々な変化を経験し、一層「将来を決めることへの恐れ」を感じるようになってきました。なので、もう皆さんと同じように「将来から逆算をして」生きることは、やめにしようと決めました。


●人生は良くも悪くも、自分の思い通りには進まない

前回の記事でも触れましたが、やはり人生は思い通りに進まないことが多いです。個人の感覚の差があるため、一概にどうだということは言えませんが、私はこの数年間で考えていた、人生は自分の思い通りに進む、もっと言えば世界は自分を中心にして回っている、という考えがいかに浅はかで傲慢であるか、ということを身をもって教えられました。
その一番の理由は、就職から5ヶ月で心身を壊して退職してしまったことでしょう。その時までは、自分がまさか鬱のような状態になって職場に行けなくなるとは思っていませんでした。しかし、この経験から「人生は何が起こってもおかしくはないな」と思うようになりました。昨日まで健康だったのに、今日になって急に身体がおかしくなることだって、ゼロではない訳です。事実、昨日まで大きな自己に巻き込まれずに生きてこれても、今日も同じように生きられる保証はないわけですから。
(職場を5ヶ月で辞めた時のブログ記事はこちら。)

この経験で、私は「人生は自分の思い通りには進まない」と身をもって知りました。ですので、今は以前よりもいくばくか「思い通りに進まないや」ということを受け入れられるようになってきたとは思っています。


ですので、こんな経験をしてしまった後で「将来から逆算して…」なんてことを言われると、なんだかバカみたいになってくるのです。もちろん、仕事や直近の取り組みに対して期限を設けないことは進められることではありません。ただ、私の場合「3ヶ月以上先のことは分からない」という考え方をもともと持っていて、それ以上先のことは考えたことがありませんでしたし、仮に将来的にしたいことを決めたとしても、「○年先に▽▽に移住して生活をしよう!だから今のうちに□だけお金を貯めて、移住先の言葉を勉強して、役に立ちそうな人脈を作って…」ということは絶対にしません。裏を返すと「○歳の時に海外に渡って生活をしたい」という願望はありますが、一年遅くなっても良いですし、一年早まっても良い。極論すると、その時の目標が変わって渡航しなくなっても、渡航先が変わってしまっても、自分を受け入れられるようになったと思います。それぐらいにこだわりがなくなってしまったとも言えます。


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●偶然の要素を楽しむ

将来を決めてしまうことの弊害は、「偶然の要素を楽しめなくなる」ということにあります。

私は今まで、仕事でもプライベートでも、自分自身で決めたこと以上に人からの情報や相談を受けて興味を持ったり、取組んだりしたことが多くありました。詳細は過去の記事(「人生は、思った以上に可能性に溢れている」)をご覧頂きたいのですが、自分では考えもしなかった、思いも付かなかったような仕事に関わらせて頂いたり、知る由もなかった場所に行ったり人と会ったり、ということが多々ありました。特に一年半前、自分の独立当初の方向性や目標と比べても、今の自分がいる場所はおそらく大きくずれているはずです。しかし、果たして当初の航路と違った自分を顧みて「目標通りにいかなかった。夢を叶えられなかった」と思うことは絶対にありません。この時間の中で、新しい気づきもあり、自分が知らなかった自分を知ることができたのですから。そしてこのことすら、将来への伏線になっているような気がするのでワクワクが止まりません。

もしこれを、「あれもできなかった、これもできなかった。今の場所は全然違う」と自分を責めてしまっては、足元に落ちている素敵なものにさえ気づかずに一生を終えてしまいそうで私は怖いです。私もいつかは、身を固める時期が来ます。ですが、果たしてどうやって身を固めるのか?今の自分が向いている方向とは別の方向で身を固めることになっていそうで、それすらも「自分は果たしてどうなっているんだろう」という興味の対象なんですね。だから、自分の決めた将来が必ずある、と思い込む訳ではなく、今やっていることや出会っている人、知ったことが新しい伏線をもたらして自然と将来は作られるんだろうな、と思っています。


もっともっと、生きる上で偶然の要素を楽しみましょう。
だって、もしかすると通過地点が違うだけで到着地点は最初と同じなのかもしれませんし、逆に、通過地点は同じなのに、到着地点が全然違うかもしれないのですから。

2014年8月9日土曜日

期待値を下げることと、心の余裕

関西は台風が直撃で、今週末に予定していたプライベートの予定はキャンセルしました。外出すらもおぼつかない程雨が降っていますし、警報も出ているようでこういう日は家に籠るに限ります。

この半年程で、ものすごく心の余裕が出てきたように思います。以前だと会社勤めをしていたこともあって、週末の予定が荒天で無くなってしまうと「せっかく楽しみにしていた週末なのに!」と、後悔しても後悔しきれないような心の状態に陥っていました。今でも、仮にどこかに勤めていたら同じような考え方をしているのかもしれません。

今は「ずっと前から予定を合わせて楽しみにしてきたけどしょうがない。次の機会を作ろう」という風な考え方に変わってきました。



さて、私たちはいつから「自分の人生は自分の思うように進んでいく」という勝手な考え方を身につけるようになったのでしょう?確かに、日本の公共交通機関の正確性は世界と比べてもずば抜けていますし、レストランでも注文した料理が出てくるまでそんなに待たされはしません。鉄道でもレストランでも、少しの遅れがあるだけで謝罪が行われます。
このような環境が日頃からあると、「何でも自分の思い通りに進んでしまう」と勘違いしてしまうのも、無理はありません。私だって未だに、電車を使う時は少しの遅れが出るだけで無性に苛立ってしまうこともあります。


ですが、よく考えてみると自分の思い通りに世の中が進んでいくことなんて稀なことの方が多いのです。仕事が思い通りに進まなかったり、忙しい時に限って別の予定が入り込んだり、欲しい返事が来なかったり…。こんなことが起こる度に、イライラしたり変に気を揉むのは一度は止めてみたいものです。


私は、海外で「自分の思い通りには物事は進まない」ことを身をもって学びましたし、今日本にいても、特に仕事で同様のことは多々起こっています。そんな時は、期待値を下げて「うまく行ったら良しとしよう」と考える。「うまく行くのが当たり前だ」と考えるのではないんですね。そうすると不思議と、トラブルがあった時も「そんなこともあるよね〜」と、笑って受け入れられるようになると思うのです。

期待値を下げて、心の余裕を持つ。もちろん全てのことで期待値を下げるのはお勧めできませんが、物事が上手く進まないことに対して過剰に反応することを止めるだけで、私たちの心はとても軽くなるのです。

2014年8月8日金曜日

ゆずの「夏色」は、本当に夏歌なのか

夏歌には素敵なものが沢山ありますね。

私が好きなものだと、
・桑田圭佑の「波乗りジョニー」
・aikoの「花火」
・JUDY AND MARYの「Over Drive」
・YUIの「SUMMER SONG」
・森山直太朗の「夏の終わり」
などがあり、表題の「夏色」も、その中の一つに入っています。

ただ、最近この歌を口ずさんでいると、衝撃的な事実に気づいてしまいました。


この歌は本当に夏の歌なのか??


これが本当だとすると、天と地が入れ替わってしまうほどの新事実です。


まさか…と思う人も、一緒にこの歌を冒頭から歌ってみましょう。



行きますよ!



駐車場のネコはあくびをしながら〜♪


今日も一日を過ごしてゆく〜♪


何も変わらない 穏やかな街並み〜♪


みんな夏が来たって浮かれ気分なのに〜♪


君は一人さえない顔をしてるね〜♪


そうだ君に見せたいものがあるんだ〜♪


大きな五時半の夕焼け〜♪ 子どもの頃と同じように〜♪


海も空も雲も僕等でさえも 染めてゆくから〜♪






……

………


あれ?


あれれ?


「五時半の夕暮れ」?


夏にしては、少し早すぎる気がしませんか?


6月の夏至の頃で、関西の日没時間はおそよ19時15分。

一月前後でも、18時台の終わりから19時頃です。

【参考】国立天文台・大阪のこよみ


ゆずは神奈川出身のバンドですが、日没時間は関西とそんなに大きく変わらないでしょう。
仮にこの曲が、神奈川県を舞台にしているとすると、「5時半の夕暮れ」が見れる時期はいつなのか?

先程のページの「神奈川県」ページを見てみました。

すると、2014年で17時半に日没を迎える日は…


2月22日
9月28日

の二日のようです。

うーん、2月といえば冬の一番厳しい時期ですし、9月の終わりも、大学生は夏休みかもしれませんが、既に秋に移っている頃。夏が来ると聞きたい曲として根強い人気を誇っているこの曲ですが、その真相は夏歌ではないのかも…



※こんなくだらないことを一生懸命考えるようになったきっかけは、他でもない「空想科学読本」のおかげです。
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2014年8月7日木曜日

私の「カネを積まれても使いたくない日本語」はこちらです

内館牧子さんの「カネを積まれても使いたくない日本語」という、これまたインパクトの強い本が図書館にあったので借りてきました。

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中にはいわゆる「コンビニ敬語」と言われるものから政治家が使っている意味不明な言葉まで、6章にわたって挙げられていたのですが、これらの言葉に共通することは総じて「責任の所在をぼかす(はっきりと言わない)」ということでした。詳しくは実際にお読み頂きたいですが、私も聞くだけで気分が悪くなる言葉から、自分も使っている言葉まで網羅されていて、改めて自分が普段口にしている言葉を考え直す機会にもなりました。


さて、今回はこの本を読んで考えた、私の「カネを積まれても使いたくない日本語」を紹介します。


①すごい+形容詞

元々は若者言葉だったかもしれませんが、昨今はもう少し年代の幅が広がったような気がするこの言葉遣いは例えば「すごいおいしい」「すごいきれい」「すごいうれしい」などです。

本来、形容詞を修飾する言葉は副詞であって、文法的に考えると「すご"く"おいしい」「すご"く"きれい」「すご"く"うれしい」というのが正しい用法です。

これは恐らく、uの発音よりもiの発音の方が楽なので(実際に「すごく」というよりも「すごい」というほうが行が流れて楽です)市民権を得て来たよう方だと思いますが、私は文法的に間違っているのが嫌なので、使いません。


②「わからんくなる」「できんくなる」

これは一部の若者(同世代)が使っていると思いますが、個人的には聞いていて耳が気持ち悪くなります。

これももともとは「わからなくなる」「できなくなる」が正しく、そこから「なく(naku)」のaが落っこちてしまったのでしょう。これも①と同様に、「発音が楽」という理由で一定の人が使っているのだと推測します。

ですが、こんな言葉遣いをしていると全然立派に見えないので私は使いません。


③「1000円になります」「ホットコーヒーになります」の「なります」

これは上記「カネを積まれても〜」でも説明されていましたが、今ではコンビニでもファミレスでも耳にします。本に載っていたのは、品のある喫茶店などでも時々耳にすることがあるようだということ。そんな場所でこれらの言葉を耳にすると、確かに私も使いたくなくなると思います。


ただ、この「〜になる」はえてして非難の的となりますが、個人的には文法面から考えると、使用の理由がある程度わかると思うのです。そして、そのことについて触れている本を今まで読んだことがないので、ここで少し持論を展開します。

もともとこれらの言葉は「〜です」が正しい訳ですが、これを勝手に「丁寧だ」と解釈して誤用が生まれていると考えられます。そして、この「〜になります」の「なり」ですが、古文で使われている断定の助動詞「なり」といくばくかの関係があるのではないか、と思うのです。

古文の「なり」は、名詞の後につくか、動詞の後について「〜だ」という意味を表します。(土佐日記の冒頭「男もすなる、日記というものを、女もしてみむとて、するなり」の最後の「なり」は断定です。ちなみに「すなる」の「なる」は、伝聞・推定の助動詞「なり」ですので、違います)。

この古文の「なり」は今でいう「〜だ」なので、例えば「1000円なり」「ホットコーヒーなり」ということは間違ってはいない訳です(とても不自然、というかおかしいですが)。

ただ、「なり」だと断定口調になってしまうので、勝手に丁寧の助動詞「ます」を更につけて「なります」になった。(「なり」の連用形+「ます」の終止形という繋がりになっているので、文法的には間違いではありません)

ただ、これでも「1000円なります」だと変なので、間に「に」を入れて、「1000円になります」という言い方になったのではないか。(「に」に関しては私もきちんと説明できないのですが、例えば「これにします」「〇〇に行きます」など、目的語を指す用法が変化したのではないでしょうか。)


古文の助動詞を使うというは、現実的に無理があるのですが、これらの用法が似ているために私は何らかの関係があると思っています。


④「〜させて頂く」の過剰な使用

こちらも上記の本に載ってありました。
この言葉自体は間違いではありませんが、使えるのは例えば、相手からの要望を受けて話し手が判断をしたときです。

食器変えてくれませんか?ー対応させて頂きます。
(クライアントからの要望があって)お伺いさせて頂きました

などですね。

これを、相手の希望や判断がないのになんでもかんでも「〜させて頂きます」と使う人が非常に多い。言っているほうはへりくだっていると思っているのかもしれませんが、こちらからなにもしていないのに言われると、言われた方はたまったもんじゃありません。その最たるものは、(クライアントに対して)「本日は休みを取らせて頂きました」という文言でしょう。「別にこっちが休暇取っていいなんて一言も言ってねーよ!」と、私なら突っ込んでしまいます。



同書にも書かれていましたが、言葉の使用については個人差があり、ある人にはまったく気にならないものでも、他の人にとっては二度と耳にしたくないものであったりするわけでもあるのです。これは仕方がないことなので、私は思うに、自分がどれだけ言葉に敏感になり、「自分は使わないか」ということを貫けるかが大事なのです。相手は変えることができませんから、変えられる自分が変わるしかないと思います。

私は言葉を扱う仕事をしているので、これからも細かい点に気をつけて使っていこうと思います。


皆さんにとっての「カネを積まれても使いたくない日本語」は何ですか?

田舎の感覚

地元が田舎で、どこかに出かけるには車があった方が便利なのです。

運転免許を取ったのは4年程前で、当時は全然乗っていませんでしたが(大学で一人暮らしをしていたため)、地元に戻って来てからは乗り始め(前職では営業で使っていました)、最近は地元のドライブコースもだんだんと覚えるようになってきました。

この夏だけで夜景を見に行ったり蛍を見に行ったり、天体観測をしに車を出しているのですが、やはり田舎は車がないと生きていけないなあ、と思います。

これは、都会に住んでいると分からない感覚でした。


そして最近、車の運転が楽しいことにも気づいてきました。

ハンドル操作とかスピードコントロールなどが楽しくて、「自分で運転している」という感覚が出てきます。MT車に乗ればさぞかし楽しいんだろうと思います。

今までは車なんて見向きもせず、ずっと公共交通機関を使って旅をしてきました(とりわけ鉄道好き)が、ここ数年は飛行機も好きになりましたし、もともと自転車も好きですし、いよいよ車も好きになってしまったか、と自分でも呆れています。


そして、これだけ車に興味があると、ゆくゆくはもっと良い車に乗りたい、欲しいと思ってくるのです。本当に不思議です。(MTのスポーツカーを運転してみたいですね)

ひとえにこれは、田舎で長く暮らしてしまったことで起こってしまったと思います。「できるだけものは持たずに身軽で」というポリシーを持っている自分が、これだけ維持コストのかかる財に興味を持ってしまったのは、間違いなく田舎の価値観に洗脳されてきているからでしょう。

また時期を改めて遠出をして、頭の中に新鮮な空気を吹かしたいです。

2014年8月6日水曜日

一月に一回くらいは遠出をした方が良いです

最近の楽しみ。

月に一度、どこか遠くに行くこと。



普段の活動拠点は奈良で、遠くに行っても神戸辺りの私ですが、やっぱり普段行かない場所、見ない景色を目にしたいというのは幼い頃からの願望です。

そんな今年は、
1月にベトナム
2月に台湾
3月にトルコやギリシャ
4月はどこにも行かず、
5月は東北、東京、福岡
6月は東京(仕事)
7月はどこにも行かず(車で県内をうろうろはしました)
と、前半を振り返ると、どこか遠くに行ったことが多くありました。

やはり、遠くに行くと口にするものが違い、目にする景色が違い、出会う人が違い、何から何まで新しい発見です。普段使わない頭の部分を使っている気もしますし、人生のマンネリ化を防ぐには、「ちょっと」遠くへ足を運んでみるだけでも十分にリフレッシュができるのではないでしょうか。

今はLCCも飛んで、国内外を問わず、比較的コストを低くして移動することができました。高速バスも国内を縦横無尽に走っています。

関東の人は甲信越でも、関西の人は中国や山陰地方にでも行くだけで、新しい発見ができて心に余裕ができるのではないでしょうか。

ひいてはそれが、心の豊かさに繋がるのではないかと思います。

2014年8月4日月曜日

人にアドバイスを仰ぐ時に気をつけている3つのこと

私はあまり、人に相談をしない人間なのですが、最近は人に仕事の相談や悩み事の吐露をすることが増えてきて、また逆に、いろんな相談を受けることも多くなってきました。数年前も、相談をする時は相談をしていましたが、今思うと、絶対にあの時は「相談の仕方」が下手でした。今は少しずつ改善しているとは思っていますが、それ以上に、相談を受ける時に「どう答えればその人の欲しているアドバイスに近づけるのかが分からない」ということは多々思うので、今回は自分が人に相談をするとき、アドバイスを仰ぐ時に気をつけていることをまとめてみました。


1、相談することはできるだけ具体的に(与える情報を多くする)

仕事の相談をする時は、その多くはトラブルに関することです。元々の条件と違っていたり、(あってはならないことですが)支払いがされなかったりと、考えてもいなかった所からジャブが飛んで来ることが多々あります。
そんな時は、必ず第三者のアドバイスを仰ぐようにしていますが、その時には必ず、できるだけ多くの情報を伝えるようにしています。
・もともとの内容
・どんな経緯で至ったか
・こちらの主張と相手の主張をまとめる

「もともとこういう条件でしたが、相手からこんな返信が来ました。他のこういう内容も含めて、この部分はおかしいと思うのですが、どうでしょうか。」という風に伝えると、相手に取っても状況が整理されて、より核心に近いアドバイスを頂けるはずです。


2、自分の考えを伝える

1を伝えた上で、「私は、●と▽と合わせて、こういう風に考えます。また、具体的にこういう対策を考えています。これについてはどうでしょうか」という風に、自分の考えも伝えます。こうすることで、私の考え方が間違っている場合どこがまずいのか、改善できる点はないかを指摘してもらえる可能性が高くなるからです。その上で、相談相手から頂いたアドバイスと比較すると、どこが違うのか、今後自分の血肉にできることがあるかを知ることもできます。


3、相談相手を選ぶ

これは過去に何度か失敗があるのですが、「相談相手を間違えてしまった」ということがあります。相談相手から欲しいアドバイスは、時には自分の背中を押して欲しいこともあるわけです。そういう時には、できるだけ自分と進んでいる道が似ている人、生きている世界が似ている人を選ぶようにしています。

過去にあったのは、自分が欲していた内容とは全く検討ハズレの、非建設的な(何も生み出さない、ただの説教のような)回答を受けたということで、もちろんこの人とは縁を切りましたが、「誰に相談するか」ということは、思っている以上に大きな要因です。




★★★
結局大事なのは、「自分の頭で考える」こと


私は「ちきりん」さんのファンで、これまでに何度か著書を読んでいるのですが、ちきりんさんが常々おっしゃっているのが「自分の頭で考えよう!」ということです。

ちきりんさんのブログの過去記事に「アドバイスを消費する人たち」というのがありますが、これを読んでいると正に、「自分で考えることができない(しない?)」人が多いんだなあ、と思いました。

人から相談を受けるとき(仕事の見積もりや悩み事でも)、あまりに漠然とした質問を受ける時があるのですが、それは受ける側に立つと、回答がとても難しいんですね。もちろん、「自分の頭で考える」ということも一種のトレーニングですので、一朝一夕で身に付くことではないのですが、相談を受ける側としては、「相談に対するアドバイス」以上に「考え方に対するアドバイス」を伝えた方が本人のためになるのではないか?と思う時はあります(「魚を与える」のではなくて「魚のつり方を教える」という、有名な比喩ですね)。


私も、自分が相談をする時は以上のようなことがあってから、「自分なりに考えたプロセス」と「自分なりの答え」をある程度準備するようにしました。この癖をつけていると、だんだんと自分一人でも考えて判断ができてくるようになると思います。

(余談ではありますが、先日Facebookを見ていたら大学の後輩が「スペインに行くのですが、サグラダ・ファミリアには行った方がいいですか?」みたいな相談を(他の相談と合わせて)していて、吹っ飛びそうになりました。それを決めるのは、自分のスケジュールや予算、あとは好奇心との兼ね合いであって、これらの条件を鑑みずに人に相談できるものではありません。自分はこんな質問を絶対にしないので、大学生にもなってこんなことを聞いている人を見て本当に驚いてしまいました)



【関連記事】

聞き役に徹する

2014年8月3日日曜日

『「優柔決断」のすすめ』(古田敦也著)を読んで

この前手にした本が、元東京ヤクルトスワローズの選手・監督だった古田敦也さんの新書『「優柔決断」のすすめ』です。

一番のメッセージは「考えて決断をすることを恐れない」ということだったのですが、恥ずかしいながら最初図書館で目にした時は「優柔不断」と読み間違えてしまい、「プロ野球選手でも優柔不断の時があるのか!」と勘違いして借りてしまった一冊です。

ですが、こんな勘違いにも関わらず読んでみると物事への取り組みや姿勢、考え方について、主に野球の例を通してですが詳しく書かれており、仕事や普段の生活への参考、応用もできると思いました。


私が一番印象に残っているのは、「結果が大事かプロセスが大事か」という問いに対して、「二者択一の場合だと絶対に結果の方が大事だが、それを意識するあまり良い結果が出ないときへの緊張や不安が増してしまう時がある。そんな時は、『いい結果が欲しければ、結果を気にしない』ことが大事だ」という文言でした。

私も最近は、「良い結果を出さないと」と力んでしまうことが多くなってきています。それは、その結果次第で次の仕事や展開が大きく異なってきてしまうからなのですが、振り返ってみると確かに、「良い結果を出そう」と変に意識しない方が、結果的には良い仕事ができていたり、アウトプットが積み上っていることが多いのです。


この本には冒頭で、「未来を勝手に予測していませんか?」という痛烈な問いかけがされています。そこでは、古田さん自身が大学時代に実力があって有名になりドラフト会議に出たにも関わらず、結局そこでは指名されず(事前に幾つかの球団から、声かけをされていたにも関わらず)、腐ってしまった、というエピソードを披露されているのですが、なるほど、私も得てして「勝手に未来を予測してしまう(というよりは妄想してしまう)」ことが、仕事でもプライベートでも多くあるな、と反省することができました。


自分自身、「この仕事をすれば次はこんな展開になるんじゃないか」と思ってしまうことが多いのですが(この一年くらいでそうはいかないことは学びましたが)、やはり原点は「目の前の仕事をしっかりとこなす」ことでしかないわけで(これは勤め人でも独立している人でも同じだと思います)、先のことを考えることは必要ですが、それによって今現在をおざなりにしてしまうことは本末転倒です。


幸いなことに、最近は仕事でも「目の前のことに集中」することができ始めているので、調子が悪くなった時は古田さんのこの教えを頭の片隅から引っ張りだして来ようと思います。

野球好きの方には、この本はイメージが掴みやすいのですらすらと読めると思います。


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2014年8月2日土曜日

時間感覚の変化

個人事業主として仕事をするようになって大きく変わったのが、時間感覚の変化です。

簡単に言うと、会社勤めをしていた頃は「もう一月経ったの?」と思うことが度々あったのですが、今は「まだ一月しか経っていないの?」と思うことが、それはもう頻繁にあるのです。



今年ももう8月になりましたが、私はこの1月にベトナム、2月に台湾、3月にヨーロッパ、5月に東北・東京・福岡に足を運んできました。

特に3月のヨーロッパと5月の国内旅行については、「まだ4ヶ月しか経っていないの?」「まだ2ヶ月しか経っていないの?」と思ってしまうのです。自分の中では、もう半年以上前の出来事のように思うのですが、それほど実際の時間の経過は早くはないようで、こんな経験は生きていて初めてなので正直(良い意味で)ショックなのです。(今まで、「もう半年前のことなのか」と思うことは多々ありましたが「まだ半年前なのか」と思った経験はありませんでした。)


それだけ、一時一時の時間が濃くなっているのかもしれません。

相変わらず、1日が終わるのは早いとは思っています。1日で終えなければならないことが捌ききれずに、1日の短さには今でも驚いています。ですが、これが積み重なって1ヶ月、3ヶ月、半年という風になると、まったく逆のようにおもってしまいます。

その理由には、毎日が変化に富んでいるということが挙げられるかもしれません。毎日起きる時間も異なりますし、仕事を始める時間、仕事の時間も違います。そういう点で、毎日に濃淡、起伏がついて体感する時間感覚が膨張しているのではないでしょうか。

もちろん、体感時間が長くなったからといって、その間でインプットしていることとアウトプットできていることはそれほど(量も質も)増えてはいないのですが、少なくとも「気がついたら1年(10年)が過ぎていた…」というような絶望を味わうことはなさそうで少しだけ安心しています。

天空の修道院・ギリシャのメテオラを7時間かけて歩いてきました。

もう4ヶ月程前の話ですが、トルコ、ブルガリア、ギリシャの三か国を旅行してきました。


個人的に当たりの国がギリシャ、特に中部にある世界遺産のメテオラが良かったので、その時の様子を旅行記としてまとめることにしました。


〜目次〜
1、メテオラとは?
2、どこからどうやっていく?
3、実際に歩いてみて



1、メテオラとは?
メテオラとは、ギリシャ北西部にある「奇岩群とその上に建設された修道院共同体」のことを指します。

数あるギリシャの世界遺産の中でも、屈指の人気度を誇る場所ではないかと思われます。(ギリシャという国自体が、ヨーロッパの中では人気ランキングが低いので足を運ぶ方は比較的少ないとは思います)






これらの写真を見ると「どこかで見たことあるぞ!」と思われた方も多いのではないでしょうか。



ここを7時間かけて歩いてきました。


2、メテオラへの行き方
メテオラには、主に二つの行き方があります。
一つ目は首都のアテネから行く方法。もう一つは、テッサロニキという、ギリシャ北部の街から行く方法です。
(テッサロニキは、ブルガリアやマケドニア、トルコなどを結ぶ交通機関の要所です。私はブルガリアのソフィア〜テッサロニキ〜メテオラ〜アテネ、と移動しました)

・アテネから行く場合
鉄道だと、一日2便の直行列車があります。途中のパレイオファルサロスという駅で乗り換えをしていける場合もありますが、接続は良くない場合があります。
バスでも、アテネのバスターミナルからメテオラの一つ手前の街、トリカラまで移動して、ここから更にメテオラの入り口であるカランバカまで移動することができます。
※アテネのバスターミナルは、中心地より少し離れた場所にあるのでアテネでの利便性を考えると列車の方が良いかもしれません(アテネでホストをしてくれたギリシャ人のアドバイスです)

・テッサロニキから行く場合
アテネと同様、電車とバスで行けます。電車の場合、直行もしくはパレイオファルサロスで乗り換え。バスも、トリカラまで行ってから乗り換えです。
※列車やバスの時刻については、現地の案内所などで最新の情報を入手して下さい。当ブログは最新情報に関して一切感知し得ません。

※宿泊ですが、メテオラ手前のトリカラにある「ホステルメテオラ」の利用をおススメします。詳しい理由などについては改めてまとめようと思います。

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3、実際に歩いてみて
実際に写真と共に、おおよそのルートの紹介をします。

まず、メテオラ散策をする前に持っておくと良い道具が以下の通りです。
・水←水分補給
・メテオラの地図←ホステルなどで入手可能です。
・ウォーキングシューズ←大半がアスファルトの道です。
・食事←チョコなど、カロリーがあって手軽に食べられる物が良いでしょう。

なお、ここではメテオラの地図については以下のURLを参考にして下さい。

やや分かりにくいのですが、中央下の「鉄道駅」の近くのAがバス乗り場付近で、ここから時計回りに

アギオス・ニコラオス修道院
→聖・大メテオラ修道院
→ヴァルラーム修道院
→ルサヌー修道院
→アギオス・ステファノス修道院
→アキア・トリアダ修道院

という風に回るのが一番オーソドックスでしょう。

※修道院によって閉まる曜日が異なるため、一週間の大半の日はどこかの修道院には入れません。詳細情報は現地のホステルでご確認下さい。
※地図中の桃色線、黒色線は車が走れる道路、桃色破線は階段状のトレッキング道路です。基本的にこの道沿いに歩きますが、アギオス→大メテオラ修道院への移動の際は、抜け道があります。(現地で手にする地図には載っています)


まずは、鉄道駅・バス乗り場からアギオス・ニコラオス大聖堂を目指します。バス(トリカラ行き)は頻発していますが、鉄道はものすごく少ないので帰りの時間をきちんと確認しておきましょう。

最初の修道院までの距離が2〜3kmほどあるので、ここはタクシーを使うのもありです。


途中分かれ道がありますが、基本的に岩が見える方向に移動すれば大丈夫です。"To Meteora"のような案内もあります。


ギリシャ語でレストランは「タベルナ」のようです。食べるのに「タベルナ」は面白いと思いました。




アギオス・ニコラオス修道院が見えてきました。



修道院からの眺め。
各修道院の入場料は、2ユーロ程します。



これが、聖・大メテオラ修道院への近道。上り坂が続くのでペースを保ちましょう。

聖・大メテオラ修道院からヴァルラーム修道院に行くまでは舗装道路です。


これは車用の看板。矢印とは逆方向に歩きます。


こちらがヴァルラーム修道院。



スケールの大きさに圧倒されます。



入り口近くからの写真。



この上の写真の左側に見えるのがルサヌー修道院です。


私が歩いた日は、開いているという情報だったのですがなぜか閉まっていました。



こちらがアギオス・ステファノス修道院。こちらは曜日通り閉まっていました。が、一番綺麗な修道院です。



分かりづらいですが、この上の写真の上部にアキア・トリアダ修道院があります、中央右下に見えるのが修道院に続く道です。


ここからはひたすら道を降りていきます。

地上まで降りると、街に入ります。


時計回りがオーソドックスですが、反時計回りに散策することもできるようです。



バス乗り場に戻ってきました。


こちらはカランバカ駅。


この時は7時間半ほどかけて歩いたのですが、修道院内を見て回ったり、休憩時間も含まれているので実質的な歩行時間は5時間程度だったと思います(見て回る時間は個人差があります)

ただ、よほどトレッキング等が得意な人ではない限り6時間から8時間くらいはかかってしまうと思うので、隣町のトリカラか、最寄りのカランバカに2泊し、朝9時頃から歩き始め、15時〜17時くらいに戻ってくるのが一番良いかと思います。(少なくとも、アテネやテッサロニキから日帰りでは行けません)。トリカラ泊の場合、バスの時間もあるので若干早めに行動を始める必要があります。


<まとめ>
今までギリシャは、私もあまり知らない国だったのですがこの旅行でとても好きになってしまいました。ユーロ圏ではありますが物価は比較的安く、食事も日本人の舌に合います。離島も多いですし、本土にも見所が沢山あります。メテオラはその中で有数の人気度があるので、ギリシャに足を運ばれる際は是非訪れてみて下さい。