内館牧子さんの「カネを積まれても使いたくない日本語」という、これまたインパクトの強い本が図書館にあったので借りてきました。
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中にはいわゆる「コンビニ敬語」と言われるものから政治家が使っている意味不明な言葉まで、6章にわたって挙げられていたのですが、これらの言葉に共通することは総じて「責任の所在をぼかす(はっきりと言わない)」ということでした。詳しくは実際にお読み頂きたいですが、私も聞くだけで気分が悪くなる言葉から、自分も使っている言葉まで網羅されていて、改めて自分が普段口にしている言葉を考え直す機会にもなりました。
さて、今回はこの本を読んで考えた、私の「カネを積まれても使いたくない日本語」を紹介します。
①すごい+形容詞
元々は若者言葉だったかもしれませんが、昨今はもう少し年代の幅が広がったような気がするこの言葉遣いは例えば「すごいおいしい」「すごいきれい」「すごいうれしい」などです。
本来、形容詞を修飾する言葉は副詞であって、文法的に考えると「すご"く"おいしい」「すご"く"きれい」「すご"く"うれしい」というのが正しい用法です。
これは恐らく、uの発音よりもiの発音の方が楽なので(実際に「すごく」というよりも「すごい」というほうが行が流れて楽です)市民権を得て来たよう方だと思いますが、私は文法的に間違っているのが嫌なので、使いません。
②「わからんくなる」「できんくなる」
これは一部の若者(同世代)が使っていると思いますが、個人的には聞いていて耳が気持ち悪くなります。
これももともとは「わからなくなる」「できなくなる」が正しく、そこから「なく(naku)」のaが落っこちてしまったのでしょう。これも①と同様に、「発音が楽」という理由で一定の人が使っているのだと推測します。
ですが、こんな言葉遣いをしていると全然立派に見えないので私は使いません。
③「1000円になります」「ホットコーヒーになります」の「なります」
これは上記「カネを積まれても〜」でも説明されていましたが、今ではコンビニでもファミレスでも耳にします。本に載っていたのは、品のある喫茶店などでも時々耳にすることがあるようだということ。そんな場所でこれらの言葉を耳にすると、確かに私も使いたくなくなると思います。
ただ、この「〜になる」はえてして非難の的となりますが、個人的には文法面から考えると、使用の理由がある程度わかると思うのです。そして、そのことについて触れている本を今まで読んだことがないので、ここで少し持論を展開します。
もともとこれらの言葉は「〜です」が正しい訳ですが、これを勝手に「丁寧だ」と解釈して誤用が生まれていると考えられます。そして、この「〜になります」の「なり」ですが、古文で使われている断定の助動詞「なり」といくばくかの関係があるのではないか、と思うのです。
古文の「なり」は、名詞の後につくか、動詞の後について「〜だ」という意味を表します。(土佐日記の冒頭「男もすなる、日記というものを、女もしてみむとて、するなり」の最後の「なり」は断定です。ちなみに「すなる」の「なる」は、伝聞・推定の助動詞「なり」ですので、違います)。
この古文の「なり」は今でいう「〜だ」なので、例えば「1000円なり」「ホットコーヒーなり」ということは間違ってはいない訳です(とても不自然、というかおかしいですが)。
ただ、「なり」だと断定口調になってしまうので、勝手に丁寧の助動詞「ます」を更につけて「なります」になった。(「なり」の連用形+「ます」の終止形という繋がりになっているので、文法的には間違いではありません)
ただ、これでも「1000円なります」だと変なので、間に「に」を入れて、「1000円になります」という言い方になったのではないか。(「に」に関しては私もきちんと説明できないのですが、例えば「これにします」「〇〇に行きます」など、目的語を指す用法が変化したのではないでしょうか。)
古文の助動詞を使うというは、現実的に無理があるのですが、これらの用法が似ているために私は何らかの関係があると思っています。
④「〜させて頂く」の過剰な使用
こちらも上記の本に載ってありました。
この言葉自体は間違いではありませんが、使えるのは例えば、相手からの要望を受けて話し手が判断をしたときです。
食器変えてくれませんか?ー対応させて頂きます。
(クライアントからの要望があって)お伺いさせて頂きました
などですね。
これを、相手の希望や判断がないのになんでもかんでも「〜させて頂きます」と使う人が非常に多い。言っているほうはへりくだっていると思っているのかもしれませんが、こちらからなにもしていないのに言われると、言われた方はたまったもんじゃありません。その最たるものは、(クライアントに対して)「本日は休みを取らせて頂きました」という文言でしょう。「別にこっちが休暇取っていいなんて一言も言ってねーよ!」と、私なら突っ込んでしまいます。
同書にも書かれていましたが、言葉の使用については個人差があり、ある人にはまったく気にならないものでも、他の人にとっては二度と耳にしたくないものであったりするわけでもあるのです。これは仕方がないことなので、私は思うに、自分がどれだけ言葉に敏感になり、「自分は使わないか」ということを貫けるかが大事なのです。相手は変えることができませんから、変えられる自分が変わるしかないと思います。
私は言葉を扱う仕事をしているので、これからも細かい点に気をつけて使っていこうと思います。
皆さんにとっての「カネを積まれても使いたくない日本語」は何ですか?
僕も彼女や藪内さんと同様に感じています。が、例えば明治時代の知識人が内館さんの日本語を読んでどう感じるでしょうか? 今の彼女と同じように批評する事と思います。 言葉は所詮手段です。藪内さんは言葉が目的のお仕事ですが社会全体から見ると特殊な事情で、一般的には社会の事象や人々の気持ちを共有するための道具でしか有りません。 オブジェクトが変化すれば道具が変化するのは必然です。 なので彼女の批評はとても独善的な主張だと思ってしまいます。
返信削除okn様
返信削除コメントありがとうございました。
はじめにお伝えしておきますと、この本は某大手新聞社の会員数千名にアンケートを取り、そのデータを元に具体的な表現などを取り上げているため、批評をしているのは内館さんだけではありません。新聞購読者層のため、アンケート年齢の平均値は高めですが(恐らく50歳前後)、一定の方が同様に言葉のゆれに対しては疑問を持ったり苦言を呈していることがわかります。
おっしゃる通り、言葉は道具にすぎませんし、それを使うのは各々の勝手だとは思います。ただ、そういう言葉が不適切な場所、受け入れられない環境があることもまた、知っておいて損のないことだと私は思います。道具だからこそ、使い方と使う場所には気をつけて、分けた方がよいと思うのです。