この前、大学の後輩とお茶をしたのですが、その時に聞いた内容で目から鱗が落ちるような、目新しい話があったんです。
メモも取っていないので完全にうろ覚えなのですが、後輩曰く、
僕はお茶が好きなんです。
コーヒーは「勤勉」と結びつきますが、お茶は、その更に先にあるような気がする。茶の湯の世界だってそう。
「コーヒー」と聞くと、なぜか仕事の商談のシーンを思い浮かべませんか?新聞を広げている時に飲んでいるのは、紅茶ではなくコーヒーのような気がします。
僕は、その「勤勉」から離れた茶の世界が好きなんです。
確か、こんなことを言っていて(確か、本からの引用もあったのですが記憶に残っておらず…)、僕もなんだか、似たようなことを、言語化まではできていないけれど考えていたんだなあ、ということに気づいたんです。
後輩自身も、この考えに論理的根拠がしっかりとあるわけではない、と言っていました。ただ、「コーヒーは勤勉と結びつく。お茶はそうではない」というのは、言われてみればたいへん肚に落ちるのです。
厳密にいうと、「コーヒーはオンとオフの両方を包含するが、お茶はオフのみを包含する」のかもしれません。確かに、茶の湯の世界は完全に「仕事」とは離れています。中国に行った時も、工芸品の世界を通してお茶の世界に足を少しだけ踏み入れましたが、お茶台の上に小さな湯呑があり、そこになんどもなんどもお茶を注いで、時間を忘れていろんな話をしている富裕層の姿が印象的です(中国語だったので、もちろん何を言っているのかはわかりませんでした)。これはイメージですが、ヨーロッパでも「ティータイム」といえば、紅茶にケーキなどを添えて、何時間も哲学的なことを延々と話しているのではないでしょうか。
(あとは、コーヒー廉価で販売されているが、お茶は比較的単価が高い、ということもヒントになるかもしれません)
この話を聞いて、はたと気が付いたのです。私はゆくゆくは、この世界に足を踏み入れたいのではないかと。
過去に書いたこの記事(「僕が究極的にしたいこと」)で書いていたことは、まさに「お茶の世界」なんじゃないだろうか。
こういう考えが知らないうちにおのずと芽生えたのは、ヨーロッパを回ったことが大きいのかもしれません。かつてヨーロッパを10カ国回った時に、街中にあふれる喫茶店のテラス席に座って、のんびりと話をする光景にでくわし、そんなゆっくりとした時の流れに身を任せることにあこがれを抱いたのかもしれません。(北欧、スウェーデンには「フィーカ」というお茶の文化があるようです)
そして、こんなことにあこがれを抱いたのも、なんでも周りに気を使い、かつあくせく生きている日本人を見て、抵抗が芽生えてしまっていたのかもしれません。列車が3分遅れただけで車掌が詫びるなんて、やっぱりおかしいですよ。(たぶん、お茶の世界に興味を持ったことと直接関係はないと思いますが…)
私は、あまり人と話すのが得意ではないんですが、嫌いではありません。人を笑わせるような「すべらない話」は全然できないので願い下げですが(笑)、もっと深い、生きることの意味であるとか、人生の本質とか、宇宙の話や認識について、という、まったく生きていく中で役に立たないようなことを、できれば二人か三人で、時間が経つのも忘れて話をしたいです。
(やはり、僕は俗っぽいことができないんだろうと思います。)
ですが、こういう「何も生み出さない」(でも、仕事以上に何かを生み出しそうな)時間を過ごすことが、案外生きる上で一番贅沢なことなのかもしれません。そこに功利主義はありませんし、起業家マインドも必要ありません。そろばんをはじくこともありませんし、駆け引きもありません。こんな世界こそが、人間にとってもっとも尊い場所であり空間なのではないか。
そのためには、私たちの手元に一本の急須が必要です。湯呑が必要です。一杯のお茶を片手に談義を交わす、最高に贅沢な時間を過ごすことを忘れることなく、そして少しでもこんな時間を増やして、私は生きていきたいのです。
人生にティータイムを。人生をティータイムに。
メモも取っていないので完全にうろ覚えなのですが、後輩曰く、
僕はお茶が好きなんです。
コーヒーは「勤勉」と結びつきますが、お茶は、その更に先にあるような気がする。茶の湯の世界だってそう。
「コーヒー」と聞くと、なぜか仕事の商談のシーンを思い浮かべませんか?新聞を広げている時に飲んでいるのは、紅茶ではなくコーヒーのような気がします。
僕は、その「勤勉」から離れた茶の世界が好きなんです。
確か、こんなことを言っていて(確か、本からの引用もあったのですが記憶に残っておらず…)、僕もなんだか、似たようなことを、言語化まではできていないけれど考えていたんだなあ、ということに気づいたんです。
後輩自身も、この考えに論理的根拠がしっかりとあるわけではない、と言っていました。ただ、「コーヒーは勤勉と結びつく。お茶はそうではない」というのは、言われてみればたいへん肚に落ちるのです。
厳密にいうと、「コーヒーはオンとオフの両方を包含するが、お茶はオフのみを包含する」のかもしれません。確かに、茶の湯の世界は完全に「仕事」とは離れています。中国に行った時も、工芸品の世界を通してお茶の世界に足を少しだけ踏み入れましたが、お茶台の上に小さな湯呑があり、そこになんどもなんどもお茶を注いで、時間を忘れていろんな話をしている富裕層の姿が印象的です(中国語だったので、もちろん何を言っているのかはわかりませんでした)。これはイメージですが、ヨーロッパでも「ティータイム」といえば、紅茶にケーキなどを添えて、何時間も哲学的なことを延々と話しているのではないでしょうか。
(あとは、コーヒー廉価で販売されているが、お茶は比較的単価が高い、ということもヒントになるかもしれません)
この話を聞いて、はたと気が付いたのです。私はゆくゆくは、この世界に足を踏み入れたいのではないかと。
過去に書いたこの記事(「僕が究極的にしたいこと」)で書いていたことは、まさに「お茶の世界」なんじゃないだろうか。
こういう考えが知らないうちにおのずと芽生えたのは、ヨーロッパを回ったことが大きいのかもしれません。かつてヨーロッパを10カ国回った時に、街中にあふれる喫茶店のテラス席に座って、のんびりと話をする光景にでくわし、そんなゆっくりとした時の流れに身を任せることにあこがれを抱いたのかもしれません。(北欧、スウェーデンには「フィーカ」というお茶の文化があるようです)
そして、こんなことにあこがれを抱いたのも、なんでも周りに気を使い、かつあくせく生きている日本人を見て、抵抗が芽生えてしまっていたのかもしれません。列車が3分遅れただけで車掌が詫びるなんて、やっぱりおかしいですよ。(たぶん、お茶の世界に興味を持ったことと直接関係はないと思いますが…)
私は、あまり人と話すのが得意ではないんですが、嫌いではありません。人を笑わせるような「すべらない話」は全然できないので願い下げですが(笑)、もっと深い、生きることの意味であるとか、人生の本質とか、宇宙の話や認識について、という、まったく生きていく中で役に立たないようなことを、できれば二人か三人で、時間が経つのも忘れて話をしたいです。
(やはり、僕は俗っぽいことができないんだろうと思います。)
ですが、こういう「何も生み出さない」(でも、仕事以上に何かを生み出しそうな)時間を過ごすことが、案外生きる上で一番贅沢なことなのかもしれません。そこに功利主義はありませんし、起業家マインドも必要ありません。そろばんをはじくこともありませんし、駆け引きもありません。こんな世界こそが、人間にとってもっとも尊い場所であり空間なのではないか。
そのためには、私たちの手元に一本の急須が必要です。湯呑が必要です。一杯のお茶を片手に談義を交わす、最高に贅沢な時間を過ごすことを忘れることなく、そして少しでもこんな時間を増やして、私は生きていきたいのです。
人生にティータイムを。人生をティータイムに。
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