2015年8月23日日曜日

何を学ぶか、と同じくらいに、誰から学ぶか、ということが大事

中学生の時に担任に当たった先生が最悪で、自分はその時に教師の道をあきらめてしまった。


男性の国語教師だったけれど、現代国語も古文も、教科書やワークノートに書いてあることを殆どそのまま言うだけで、あの先生が口にした話はこれっぽっちも覚えていない。

しかも禿げているしすぐに怒鳴るし、

(スキンヘッドでカッコいい男性も沢山いることは承知ですが、中一の入学式の時に、中年で禿げでメガネをかけて少し太っている先生が教室に初めて入ってきたときに、自分の青春はぶっちゃけ終わったと思った。しかもその後、中二でも担任になり、中三でも副担で当たるという、ビンゴを経験w)


今思うと、怒鳴ることでしか生徒に力を示せない、残念な人間だっんだろうな、と思う。


しかも、気の弱そうな男子生徒にどなって、泣かせそうになっていたこともあった。



当時自分は13歳で、人生経験なんて何もなかったけれど、あの教師を見て「この人は今までの人生で何を学んできたのだろう」とは、ぶっちゃけ思った。


歳を取ると素敵な人間になる、と思っていたけれど、どうやら必ずしもそうではないらしい、ということを、幼心に悟った。


生徒からの評価も最悪で(特に女の子からは)、自分はあれを見て、「仕事していて生徒から嫌われるしかない、ってどんだけ最悪やねん」と思って、教師にはなりたくない、と思った。


まあ、中学受験をしたわけではなく、地方で不良が集まる公立の学校だったから、先生も生徒を抑えるのにいろいろと策を練ってのことだったのだろうけど(ちなみに自分の学年はおとなしい学年で、一つ上と一つ下が荒れていた)、あの時になんとなく、「誰を師にして学ぶかって大事だよな」とは思ったものだ。


自分がこれまで、塾にも行かず、基本的に独学で受験をしてきたり、新しい世界に挑戦してきたのは、そこまで教えを乞いたいと思える、師匠的な存在に出逢わなかったからだと思っている。


自分の中での師の基準の一つに、「どれだけ結果を出しているのか」というのはある。


仕事で言うと、どれだけ稼いでいるのか、というのがそうだし、


先生で言うと、どれだけの生徒を志望校に合格させたのか、とか、どれだけの生徒にその科目の面白さを伝えられたのか、という要素があると思う(これらだけが十分条件ではない)。


ただ、「結果」が大事なのは間違いない。


野球で言うと、イチローやマー君から教わる、というのが一番だと思っている。だって、試合で結果を出しているから。


自分は、自分でできないことを教えるような人間にはなりたくないし(それは実際的に「教えることはできない」ことになる、と思っている)、そんな人から教わりたくもない、と思っている。


自分の棚卸をした時に、「これだったら人に教えられる」というものを持っている人は、どれくらいいるのだろうか。そして、そうではないものを教えている人がどれくらいいるのだろうか。





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