普段購読している無料メールマガジンに目を通していると、まさに自分が疑問に思って考えていることに対する考察が書かれていたので、今回はその内容を紹介(転載)しようと思います。
(以下転載)
今の世界は不自然にデザインされたものであり、
それゆえの歪みが経済に生じています。
例えば社会が100人の村であれば、100人
それぞれに明確な役割があって、はっきりとした
認識として、
「私たちは協力し合って生きている
(お互いがお互いに必要としている)」
という意識を持っているはずです。
しかし人数が多くなると、自分の役割も、
他人が担ってくれていることも、社会が協力を
前提として存在していることも、全てが薄まり、
意識の外に置かれてしまいます。
「サラリーマンとして働く」ということが、
「社会の役に立つため」ではなく、
「自分の給料をもらうため」になる。
本来なら、社会の役に立つということこそが、
自分の価値証明なのに、それがいつの間にか、
給料の多さが価値証明となっていく。
100人の村なら「役立たず」は村八分にされる
ので、役に立つかどうかが、まず一番前提にある
自分自身の安全保障なわけですが、僕らはもう
そんなことを意識することもありません。
「生きてて当たり前」
と思ってしまっている。
なんなら、
「食わせてもらって当たり前」
「生活保護してもらって当たり前」
と思っている。
面白いもので、ここまで「個人」と「社会」の
繋がりが見えにくくなってくると、
・社会貢献
と
・自己利益の確保
が、一致しなくなってきます。
つまり、
「会社でろくに働かなくても、
雇われているのだから給料をもらって当然」
となるわけです。
あるいは、
「一生懸命働いてるけど業績は悪い。
でも、残業もしてるから残業代が欲しい」
となっている。
本来、自然なあり方を考えるなら、
自分が生み出したものの価値 = 対価
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
となるはずです。
農業とかはまさにそうですよね。
自分が育てた作物の質と量が給料に比例する。
これが「自然なこと」です。
しかし今の世界は資本主義というよりは、
金融至上主義のようなものなので、如何にして
利益を生むかが優先されます。
ここで言う「利益」とは、会計上の利益であって、
実質利益ではありません。
例えば「銀行」は、お金を増やしたり刷ったり
できるわけですが、だからと言ってそれが現実的に
利益をもたらしてはいません。
お金というものがそもそもとして、不自然なもの
なのです。
僕らは想像上の利益を大きくしたり、会計上の利益を
大きくすることではなく、実質的な利益を増やすことに
集中する必要があります。
それはつまり、
「付加価値」
~~~~~~~~~~~
というやつです。
農業の例で言えば、
・高品質のものを
・できる限り多く作る
ということが付加価値になるかもしれないし、
・特別な種類のものを
・ブランドにする
ということが付加価値になるかもしれません。
「付加価値を生む」ということは、言って見れば、
「自分のポジションを確立する」ということです。
基本的にはもう、人口も増えすぎていて、
必要のない人間の方が多かったりするわけです。
そして今後20年足らずで、
「今ある職業の50%は機械化される」とまで
言われているわけです。
人口が多いわ、仕事がないわで、僕らの価値は
どんどん下がっていく一方です。
日本の破綻などを心配する人も多いですが、
実は一番心配すべきことは、
「自分自身の価値がなくなること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
です。
例えば日本が破綻したとして、日本人が貧乏に
なったとして、さて、その時にあなたに仕事は
ありますか?
「日本人を雇う理由」なんてないわけです。
特別な技術があるとか、
能力が高いとか、
何か付加価値がある人材なら引く手数多でしょう。
しかし、そうでないなら、仕事すらないのです。
日本円仮に紙くずになったって、付加価値のある
人間はすぐに新しい仕事が見つかり、ドルでも
ユーロでも稼ぐことができます。
どこかに仕事はありますから。
問題なのは、あなた自身に仕事があるかどうか?です。
一番きついのは老人と老人を抱えた家族です。
老人は貯金がゼロになって、それを抱える家族は
だいぶしんどい思いをする。
家族が付加価値のある優秀な人間だったらいいですが、
そうでなければ、さらにきつい。
日本の破綻というのは「貯金がなくなる」という
ことではなく、「日本人の価値がなくなる」という
もっと深刻な問題なのです。
もっと言えば、
あなたに価値なんてない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということ。
僕らは今はまだ、生きているだけで消費者です。
生活保護を貰えば、買い物ができます。
つまり、まだ価値がある。
でも、貯金もゼロ、所持金もゼロ、保護もゼロ、なら?
生きているだけで負債ですよ(苦笑)
残念なことです。
「自分自身の価値を高めること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
を、今のうちに必死になって取り組まないと、
かなりきついことになると思います。
(以上転載終わり)
ちょうど昨日、「給料=自分の仕事の価値、なんだろうか?自営業なら分からなくもないが、会社員は違うことないか?お金と価値は等価ではないけど、会社員の方が結びつきにくいし、それ故勘違いしてしまう人が多そう」というようなことをもやもやと考えていたのですが、
それに対する思考プロセスと答えは、どうやらこの文章にあるようです。
結局、価値の提供、価値の交換なんでしょうね。
自分が何に価値を見出して、相手が何に価値を見出してくれるのか、って話になるのです。
そこに媒介するのがお金(貨幣)であって、別に貨幣以外のものが媒介してもいい。(この辺りは前にも何回かブログで書いているのですが、あまり反応がなかったので、自分の伝え方・書き方が下手なのか、そこまで考えている人が読者にいないかのどちらかなのでしょう。)
そうすると、自分が提供した価値の結果としてお金が付いてきたのであれば、それは堂々と「年収」という形で提示することは可能なのだと思います。
だけど、それだけが交換方法ではありませんから、
お金の代わりに住処や食事を提供してもらったのであれば、それも堂々とした「価値交換」になるわけです。
そして、「価値」なんて、一人ひとり見出すものが異なりますし、同じものごとに対しても、交換のために提示する金額やほかのものの額や量、数だって異なるわけです。
その中で交渉をして、自分が納得する内容で価値交換を行う。
そういうことが本質だと気付ければ、見える世界、考える内容もまた違ってくると思います。
だから、自分の価値を高める、ということもそうですし、
自分は何に価値を見出すのか?
相手は何に価値を見出すのか?
というところにアンテナを張って生きていかないとだめだと思っています。
そしてそれは、訓練でしか身に着かないものでしょう。
(以下転載)
今の世界は不自然にデザインされたものであり、
それゆえの歪みが経済に生じています。
例えば社会が100人の村であれば、100人
それぞれに明確な役割があって、はっきりとした
認識として、
「私たちは協力し合って生きている
(お互いがお互いに必要としている)」
という意識を持っているはずです。
しかし人数が多くなると、自分の役割も、
他人が担ってくれていることも、社会が協力を
前提として存在していることも、全てが薄まり、
意識の外に置かれてしまいます。
「サラリーマンとして働く」ということが、
「社会の役に立つため」ではなく、
「自分の給料をもらうため」になる。
本来なら、社会の役に立つということこそが、
自分の価値証明なのに、それがいつの間にか、
給料の多さが価値証明となっていく。
100人の村なら「役立たず」は村八分にされる
ので、役に立つかどうかが、まず一番前提にある
自分自身の安全保障なわけですが、僕らはもう
そんなことを意識することもありません。
「生きてて当たり前」
と思ってしまっている。
なんなら、
「食わせてもらって当たり前」
「生活保護してもらって当たり前」
と思っている。
面白いもので、ここまで「個人」と「社会」の
繋がりが見えにくくなってくると、
・社会貢献
と
・自己利益の確保
が、一致しなくなってきます。
つまり、
「会社でろくに働かなくても、
雇われているのだから給料をもらって当然」
となるわけです。
あるいは、
「一生懸命働いてるけど業績は悪い。
でも、残業もしてるから残業代が欲しい」
となっている。
本来、自然なあり方を考えるなら、
自分が生み出したものの価値 = 対価
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
となるはずです。
農業とかはまさにそうですよね。
自分が育てた作物の質と量が給料に比例する。
これが「自然なこと」です。
しかし今の世界は資本主義というよりは、
金融至上主義のようなものなので、如何にして
利益を生むかが優先されます。
ここで言う「利益」とは、会計上の利益であって、
実質利益ではありません。
例えば「銀行」は、お金を増やしたり刷ったり
できるわけですが、だからと言ってそれが現実的に
利益をもたらしてはいません。
お金というものがそもそもとして、不自然なもの
なのです。
僕らは想像上の利益を大きくしたり、会計上の利益を
大きくすることではなく、実質的な利益を増やすことに
集中する必要があります。
それはつまり、
「付加価値」
~~~~~~~~~~~
というやつです。
農業の例で言えば、
・高品質のものを
・できる限り多く作る
ということが付加価値になるかもしれないし、
・特別な種類のものを
・ブランドにする
ということが付加価値になるかもしれません。
「付加価値を生む」ということは、言って見れば、
「自分のポジションを確立する」ということです。
基本的にはもう、人口も増えすぎていて、
必要のない人間の方が多かったりするわけです。
そして今後20年足らずで、
「今ある職業の50%は機械化される」とまで
言われているわけです。
人口が多いわ、仕事がないわで、僕らの価値は
どんどん下がっていく一方です。
日本の破綻などを心配する人も多いですが、
実は一番心配すべきことは、
「自分自身の価値がなくなること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
です。
例えば日本が破綻したとして、日本人が貧乏に
なったとして、さて、その時にあなたに仕事は
ありますか?
「日本人を雇う理由」なんてないわけです。
特別な技術があるとか、
能力が高いとか、
何か付加価値がある人材なら引く手数多でしょう。
しかし、そうでないなら、仕事すらないのです。
日本円仮に紙くずになったって、付加価値のある
人間はすぐに新しい仕事が見つかり、ドルでも
ユーロでも稼ぐことができます。
どこかに仕事はありますから。
問題なのは、あなた自身に仕事があるかどうか?です。
一番きついのは老人と老人を抱えた家族です。
老人は貯金がゼロになって、それを抱える家族は
だいぶしんどい思いをする。
家族が付加価値のある優秀な人間だったらいいですが、
そうでなければ、さらにきつい。
日本の破綻というのは「貯金がなくなる」という
ことではなく、「日本人の価値がなくなる」という
もっと深刻な問題なのです。
もっと言えば、
あなたに価値なんてない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということ。
僕らは今はまだ、生きているだけで消費者です。
生活保護を貰えば、買い物ができます。
つまり、まだ価値がある。
でも、貯金もゼロ、所持金もゼロ、保護もゼロ、なら?
生きているだけで負債ですよ(苦笑)
残念なことです。
「自分自身の価値を高めること」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
を、今のうちに必死になって取り組まないと、
かなりきついことになると思います。
(以上転載終わり)
ちょうど昨日、「給料=自分の仕事の価値、なんだろうか?自営業なら分からなくもないが、会社員は違うことないか?お金と価値は等価ではないけど、会社員の方が結びつきにくいし、それ故勘違いしてしまう人が多そう」というようなことをもやもやと考えていたのですが、
それに対する思考プロセスと答えは、どうやらこの文章にあるようです。
結局、価値の提供、価値の交換なんでしょうね。
自分が何に価値を見出して、相手が何に価値を見出してくれるのか、って話になるのです。
そこに媒介するのがお金(貨幣)であって、別に貨幣以外のものが媒介してもいい。(この辺りは前にも何回かブログで書いているのですが、あまり反応がなかったので、自分の伝え方・書き方が下手なのか、そこまで考えている人が読者にいないかのどちらかなのでしょう。)
そうすると、自分が提供した価値の結果としてお金が付いてきたのであれば、それは堂々と「年収」という形で提示することは可能なのだと思います。
だけど、それだけが交換方法ではありませんから、
お金の代わりに住処や食事を提供してもらったのであれば、それも堂々とした「価値交換」になるわけです。
そして、「価値」なんて、一人ひとり見出すものが異なりますし、同じものごとに対しても、交換のために提示する金額やほかのものの額や量、数だって異なるわけです。
その中で交渉をして、自分が納得する内容で価値交換を行う。
そういうことが本質だと気付ければ、見える世界、考える内容もまた違ってくると思います。
だから、自分の価値を高める、ということもそうですし、
自分は何に価値を見出すのか?
相手は何に価値を見出すのか?
というところにアンテナを張って生きていかないとだめだと思っています。
そしてそれは、訓練でしか身に着かないものでしょう。
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