2015年8月21日金曜日

情報の価値

よく、多くのことを知っている(知識が多い)ことを強みにしている人がいます(クイズ系の番組にもよく出てきますね)が、はっきりいって、こういう人達の価値は高くはないと思っています。


これらはただの「知識」であるからです。


私は、鮮度の高い知識が「情報」である、と考えています。




情報の価値って考えたことありますか?



何かをするのに、情報を多く持っているほうが有利な時があります。

誰かと何かを競い合う時(受験でも、仕事でも、だいたいのことはこれにあてはまりますね)に、必要なものってなんでしょうか。

もしくは、自分が望む結果を出す(これもものすごく漠然とした表現ですが)ために必要なものって、なんでしょうか。


受験においては、暗記することがある程度あるので、「知識」も必要なのですが、


それ以上に、(これは受験の場合ですが)「どれくらいの偏差値が必要なのか」とか「どんな単元をどの程度まで理解すればいいのか」とか、「他の受験生が強い分野と弱い分野はどこなのか」ということではないでしょうか。


こういった内容は、普遍的な「知識」よりも、使える場所が限られていますね。受験の場合、志望校の偏差値や受験生、といった風に、情報をつかさどるファクターというか、レイヤーがとても限定的です。受験の知識を料理屋の開業のためにはふつう使えませんよね(笑)



で、これからの時代は、いかに「情報」を持っているかが大事なんだと思うんですよ。


ここで「大事」だっていうのは二つあって、一つは「自分にとって必要」である、ということで、もう一つは「他人にとって必要である」、ということです。


この二つは違うんですよ。


例えば、自分が海外に移住したいとします。

国はどこでもいいですが、そういうことをしようと思った時に必要な情報といえば、物価がどのくらいなのか、とか、働き口はあるのか、とか、月にかかる費用はいくらくらいなのか、とか、そういうことです。


海外に移住したいのが自分である場合、この情報は「自分にとって価値がある」ものなんですよ、当たり前ですけど。


で、仮に同じ情報を持っていたとしても、海外移住なんて一ミリも考えたことのない人に、同じことを伝えても、当然ですがその人にとっては必要ないわけです。


なんかとても当たり前のことを書いているので、口をあんぐりされるかもしれないのですが、この当たり前のことが重要なんですよ。


仮に、海外移住したいのが自分ではなく、他人だとしましょう。

自分は海外移住の情報をいろいろと持っています。

他人はそれを欲しがっています。


そんな状況だと、その情報は「他人にとって価値があるもの」に変わってしまいます。


当たり前と言えば当たり前ですが、不思議と言えば不思議な話で、


目の前にある「何か」(この場合「情報」なので、目に見えないものなわけです)が、その受け手が異なるだけで、持っている価値は違ってしまうわけです。



この事実を理解することが、とても大事なんだと思います。


情報に限った話ではありませんが、受け手によって、目の前にあるものの価値は変わります。男の人に「バストアップ」の話をしても、そんなの耳を傾けないに決まっています(彼女が悩んでいる、とかなら違いますが、それも含めて「受け手によって見出す価値が変わる」ことなのです)。


だから、何かの話をした時に、話が合わない、興味が湧かない、っていうのは、根本的に「自分が価値を見出すものが違う」ってことに行きつくと思うんですよ。


だって、自分が知りたくもない話を延々とされても、そりゃ聞きたくないですよ(笑)



逆に、自分が持っている情報で、「これは自分使わんな~」というのがあっても、誰か手が出るほど欲している人もいる。



これってなんだか、仕事(価値交換の出発点)になりそうな気がしませんか?



ということを最近は考えています。





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