「一人前の社会人は、自分の力で稼ぐ」という言葉がありますが、
そもそも「自分の力で稼ぐ」とはなんぞや?
というのがもっぱら最近の疑問です。
今の日本だと(というか、だいたいの先進国、新興国では)、高校あるいは専門学校、大学を卒業した後は会社勤めを始めて「自立する」というのが、一般的な流れです。
この「経済的自立」を、おそらくは「自分の力で稼ぐ(飯を食う)」と呼ぶのだとは思いますが、考えれば考えるほど、「仕事をしている人は、決して自分の力で稼いでいるわけじゃないのでは?」と思ってしまいます。(もう、ただのひねくれ者と思われても仕方がないですね笑)
それはなぜか?
例えば会社員。
世の中には様々な職種、業務がありますが、決して「自分の仕事量=報酬」となるわけではありません。
(残業手当等は付きますが)勤務日数や業務内容が月々で変わっても、基本的に「仕事の対価」は微妙なファクターに関係なく一定です。
もっというと、取引をしているのは「企業」であって、「個人」ではありません。お金を動かし富を作り出しているのは、「企業」とも言えます。(もちろん、カフェや服屋等、「個人」を相手にしているサービスは沢山あります。)
このような状況を考えてみると、一概に「自分の力で稼ぐ」という風には言えないんじゃないかな、と思う訳です。
更に突き詰めて考えますと、会計監査や研究職など、専門分野を持っている人はさておいて、日本ですと、大学時代の専門分野とは全く異なる世界で、ファーストキャリアを歩む人だって、もうそれは沢山いるわけです(特に文系)。
例えばこれが、公認会計士の資格を持っていて、その上で監査法人に就職するのであれば、まだ「自分の力で稼ぐ」と言えるのかもしれませんが(それでも、100%そうとは言えないと思います)、よくわからない志望動機を聞かれたり、インターネットで適性試験を受けたりして就職先が決まるのであれば、何を持って「自分の力」とするのかがより曖昧になります。
こんなことを書きますと、勤め人をけなして起業礼賛をしているように思われますが、今回は決してそんなことはありません。
これが例えば、起業家の場合。
どんなサービスであろうと、やっぱり失敗する人はしますし、一方で成功する人は成功します。じゃあそんな個々の事例にフォーカスして、「彼は失敗したから自分の手で稼げていない」「彼は莫大な富を築いているから自分の手で食えている」と言えるのかといえば、決してそうではないと私は思います。
どんなサービスであっても、それを買って(利用して)もらう相手(顧客)がいる訳ですし、彼らに注目してもらうのか、そうではないのか、ということは、必ずしも実力だけで計ることはできないのではないでしょうか。
もしくは、私のように個人で仕事をしていても、取引先が必要になってくる訳ですし、仕事も当然ながら安定しているわけではありません。私の同年代の、会社勤めをしている人と比べれば、収入にも当然差は付くとは思うのですが、そういう状態を比べて「自分の力で稼ぐ、稼げない」ということを表現するのは、どこかズレた話だと思います。
◎本当に「自分の力」で稼ぐ人なんていない
仕事にしても何にしても、人間は人間同士どこかで支えあっていますし、そういう人たちのと関係がないといろんな物事は上手く回っていかないと思います。
結局、人間は一人では生きていけない弱い生き物なのかも知れません。仕事に限って言えば、法人格がないといけない、チームがないといけない、取引先がないといけない、顧客がいないといけない…(必ずしも絶対必要ではないものもあるとは思いますが)自分一人で生きていこうとすればするほど、気づかされるのは「自分一人では生きていけない」ということです。
ですから私は、人間は幾つになっても誰かの世話になって、誰かに支えられて生きていくものなんだと思っています。というか、そう思うようになりました。子どもの時は、その対象が家族、両親だっただけで、年を取れば、それが勤め先だったり取引先だったり家族(夫婦)だったりに、変わるだけなんです。
◎「実力も運のうち」という考え方が好き
この言葉は、大学時代の時に誰かから聞いた言葉です。
ああ、なるほどなーと思いました。
よく言われるのは「運も実力のうち」ですね。
ですが、確かに生きていると、自分ではどうしようもないことが沢山起こりますし、そういうことに沢山出会います。
私も仕事をしていて、「なんでこんな依頼が来るの?(=自分には不相応なんじゃないか?)」というようなものがあったりします。そして実際のところ、そういう機会を通じていろんな勉強をさせてもらったり、次の扉が開いたりするわけです。
「実力も運のうち」という考え方ですが、最近仕事に関しては特に、そう思うようになりました。
自分の周りにも、大企業に進む人や、進みたかったのに進めなかった人も当然いて、そういう他人と比較してしまう人だっている訳です。「なんであいつが行けるのに、自分が行けないんだ!」みたいな。私も、別のことでではありますが、そういうことは今までも何度も思ったことがあります(笑)
ただ、そういうのも引っ括めて全部「運」なんだな、と思うように最近はなりました(全部が全部ではないかもしれませんが)。「運」という言葉に抵抗があるなら、「縁」と変えてもいいかもしれません。恐らく、私も数年前まではもっと肩に力が入っていたんでしょうけど、この数年で「人生は何が起こるか分からない」ということを、良い意味でも悪い意味でも沢山経験してしまって、もうこだわりがそれほど強くなくなってしまったんでしょうね。「人間、死ぬ時は死ぬし、死なない時は死なない」みたいな、ある種の諦観が頭の隅にあるのだと思います。
なので、あまり世の中に発露しているものを見て卑屈にならない方がいいと思いますし、逆に自分が発露していないからといって、これまた卑屈にはならない方がいい。
24歳でこんな考え方を持つなんて、自分は「さとり世代」の典型例なのかもしれませんが(笑)、ですが結局、人間一人では生きていけないんだと思う方が世の中を素直に受け入れられると思いますし、その上で自分ではどうしようもないことも沢山ある、ということも経験知として取り込んでおくことも大事だと思うのです。
(そもそも、「自分のしたいこと」「自分の夢」をはっきりとさせてそれに向かって進む、ということが奨励されているのはここ数十年間の話でしょうし、そちらのほうがよほど特殊な事例なのかもしれません。)
参考:生きていくために必要なのは、「夢」以上に「哲学」ではありませんか?
そもそも「自分の力で稼ぐ」とはなんぞや?
というのがもっぱら最近の疑問です。
今の日本だと(というか、だいたいの先進国、新興国では)、高校あるいは専門学校、大学を卒業した後は会社勤めを始めて「自立する」というのが、一般的な流れです。
この「経済的自立」を、おそらくは「自分の力で稼ぐ(飯を食う)」と呼ぶのだとは思いますが、考えれば考えるほど、「仕事をしている人は、決して自分の力で稼いでいるわけじゃないのでは?」と思ってしまいます。(もう、ただのひねくれ者と思われても仕方がないですね笑)
それはなぜか?
例えば会社員。
世の中には様々な職種、業務がありますが、決して「自分の仕事量=報酬」となるわけではありません。
(残業手当等は付きますが)勤務日数や業務内容が月々で変わっても、基本的に「仕事の対価」は微妙なファクターに関係なく一定です。
もっというと、取引をしているのは「企業」であって、「個人」ではありません。お金を動かし富を作り出しているのは、「企業」とも言えます。(もちろん、カフェや服屋等、「個人」を相手にしているサービスは沢山あります。)
このような状況を考えてみると、一概に「自分の力で稼ぐ」という風には言えないんじゃないかな、と思う訳です。
更に突き詰めて考えますと、会計監査や研究職など、専門分野を持っている人はさておいて、日本ですと、大学時代の専門分野とは全く異なる世界で、ファーストキャリアを歩む人だって、もうそれは沢山いるわけです(特に文系)。
例えばこれが、公認会計士の資格を持っていて、その上で監査法人に就職するのであれば、まだ「自分の力で稼ぐ」と言えるのかもしれませんが(それでも、100%そうとは言えないと思います)、よくわからない志望動機を聞かれたり、インターネットで適性試験を受けたりして就職先が決まるのであれば、何を持って「自分の力」とするのかがより曖昧になります。
こんなことを書きますと、勤め人をけなして起業礼賛をしているように思われますが、今回は決してそんなことはありません。
これが例えば、起業家の場合。
どんなサービスであろうと、やっぱり失敗する人はしますし、一方で成功する人は成功します。じゃあそんな個々の事例にフォーカスして、「彼は失敗したから自分の手で稼げていない」「彼は莫大な富を築いているから自分の手で食えている」と言えるのかといえば、決してそうではないと私は思います。
どんなサービスであっても、それを買って(利用して)もらう相手(顧客)がいる訳ですし、彼らに注目してもらうのか、そうではないのか、ということは、必ずしも実力だけで計ることはできないのではないでしょうか。
もしくは、私のように個人で仕事をしていても、取引先が必要になってくる訳ですし、仕事も当然ながら安定しているわけではありません。私の同年代の、会社勤めをしている人と比べれば、収入にも当然差は付くとは思うのですが、そういう状態を比べて「自分の力で稼ぐ、稼げない」ということを表現するのは、どこかズレた話だと思います。
◎本当に「自分の力」で稼ぐ人なんていない
仕事にしても何にしても、人間は人間同士どこかで支えあっていますし、そういう人たちのと関係がないといろんな物事は上手く回っていかないと思います。
結局、人間は一人では生きていけない弱い生き物なのかも知れません。仕事に限って言えば、法人格がないといけない、チームがないといけない、取引先がないといけない、顧客がいないといけない…(必ずしも絶対必要ではないものもあるとは思いますが)自分一人で生きていこうとすればするほど、気づかされるのは「自分一人では生きていけない」ということです。
ですから私は、人間は幾つになっても誰かの世話になって、誰かに支えられて生きていくものなんだと思っています。というか、そう思うようになりました。子どもの時は、その対象が家族、両親だっただけで、年を取れば、それが勤め先だったり取引先だったり家族(夫婦)だったりに、変わるだけなんです。
◎「実力も運のうち」という考え方が好き
この言葉は、大学時代の時に誰かから聞いた言葉です。
ああ、なるほどなーと思いました。
よく言われるのは「運も実力のうち」ですね。
ですが、確かに生きていると、自分ではどうしようもないことが沢山起こりますし、そういうことに沢山出会います。
私も仕事をしていて、「なんでこんな依頼が来るの?(=自分には不相応なんじゃないか?)」というようなものがあったりします。そして実際のところ、そういう機会を通じていろんな勉強をさせてもらったり、次の扉が開いたりするわけです。
「実力も運のうち」という考え方ですが、最近仕事に関しては特に、そう思うようになりました。
自分の周りにも、大企業に進む人や、進みたかったのに進めなかった人も当然いて、そういう他人と比較してしまう人だっている訳です。「なんであいつが行けるのに、自分が行けないんだ!」みたいな。私も、別のことでではありますが、そういうことは今までも何度も思ったことがあります(笑)
ただ、そういうのも引っ括めて全部「運」なんだな、と思うように最近はなりました(全部が全部ではないかもしれませんが)。「運」という言葉に抵抗があるなら、「縁」と変えてもいいかもしれません。恐らく、私も数年前まではもっと肩に力が入っていたんでしょうけど、この数年で「人生は何が起こるか分からない」ということを、良い意味でも悪い意味でも沢山経験してしまって、もうこだわりがそれほど強くなくなってしまったんでしょうね。「人間、死ぬ時は死ぬし、死なない時は死なない」みたいな、ある種の諦観が頭の隅にあるのだと思います。
なので、あまり世の中に発露しているものを見て卑屈にならない方がいいと思いますし、逆に自分が発露していないからといって、これまた卑屈にはならない方がいい。
24歳でこんな考え方を持つなんて、自分は「さとり世代」の典型例なのかもしれませんが(笑)、ですが結局、人間一人では生きていけないんだと思う方が世の中を素直に受け入れられると思いますし、その上で自分ではどうしようもないことも沢山ある、ということも経験知として取り込んでおくことも大事だと思うのです。
(そもそも、「自分のしたいこと」「自分の夢」をはっきりとさせてそれに向かって進む、ということが奨励されているのはここ数十年間の話でしょうし、そちらのほうがよほど特殊な事例なのかもしれません。)
参考:生きていくために必要なのは、「夢」以上に「哲学」ではありませんか?
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