2014年5月6日火曜日

マイナス要素でものごとを選択してもいいじゃないか

「個人(事業主)で仕事しています」と初対面の人に話すと、「わー、すごいですね!」みたいな反応を十中八九頂くのですが、実は私はあまりこういう反応は好きではありません。

なんというか、「キラキラしてますねー!」みたいな感じで見られるのがあまり好きじゃないんです。

正直に言います。

あまり好きじゃないんです。


もともと、自分の中では独立したいという思いはありましたが、会社勤めをして身体を壊して退職して、鬱みたいな時期を過ごした後で偶然仕事を頂いて、「また会社勤めしても同じことになるやろうしそれは嫌やから、ひとまず個人でやってみよう」ぐらいの気持ちで今の道を選んだので、周りが思っているほどポジティブな要因はありませんでした。そういうこともあって、あまりこういう話って自分からしたくないのです。相手に変に気を遣ってもらうのも嫌なので。(それでも、今は殆どネタにできているのでいいんですが。)


で、こういう経験をして思うのは「世の中誰もかれも、ポジティブ要素でものごと選択しているワケじゃないんだよ」ってことです。

脱社畜ブログの管理人も、「就職活動は嫌だから」という理由で起業をしてみて、結局失敗の後企業勤めをしたけど合わず退職、という経歴を持っておられるのですが、次の記事に私はとても共感しまして。

意識は高くなくても起業はできる



同じく「意識が低い」という意味では、ニートのphaさんだって同じような考えの持ち主なのかもしれません。前に読んだ本には「だるい」という言葉が沢山出てきましたし(笑)、「会社勤めるのも嫌だ」と思われながら「社内ニート的会社員」を数年続けた後、ニートになられています。


◎人間なんだから、マイナスの要素だっていくらでも持っている

自分が経験したからこそ思うのですが、人間というのは、「これが好きだから」という理由だけで人生の選択を全て行っているわけではありません。

「今日はしんどいから外食にしよう」と考えて選択をすることもありますし、「超満員の中外出するのは嫌だから家に籠っていよう」という選択をすることだってあります。

でも、こと就職の面談だとかになると「ポジティブな理由じゃないと駄目」みたいになるのが個人的には嫌ですね。

元々自分が独立をイメージしたのも「自分会社員は無理だろう」と思っていたことが長らくあって(そして本当に合わなかった)、体裁的にはそこにポジティブな要素を外付けして外面を良くしていただけなんでしょうけど、本当に、どれだけ外面良くしていても自分の内なる言葉はないがしろにできませんし(それがポジティブなものでもネガティブなものでも)、そういうのと向き合ってないと、思考停止したまま時間だけ過ぎて(老いて)、立ち止まった時には取り返しのつかないことになっているんじゃないかとも思います。
(まあ、他人の心配するより自分の心配をしろよって話なんですが)


特に最近はインターネット(特にSNS)が発達して人口に膾炙して、一層「わかりやすいストーリー」「人に興味を持ってもらうストーリー」が必要とされていているのだとは思いますが、FacebookやTwitterの投稿を見ていると「なんでみんな、こんなにポジティブな要素で固められるんだろう?悩んだりしないのかな?自分の中に違和感って絶対にある筈なのに、それを殺してまで自分のポジティブ感を発信したいんだろうか?」といぶかしんでしまいます(苦笑)

私はこれまでも、中学校の担任の教師が嫌で嫌でその時に「教師にはならない(なりたくない)」と思ってその道を閉ざしましたし、多くのところで「夢を追う」のではなく「自分が足を踏み入れたくない世界から逃れる」という、どちらかというと後ろ向きな判断で物事を判断、選択してきました。

自分では、こういう考え方、判断の仕方は全く抵抗なくできるのですが、それを受け入れない世界もあるのは、未だに「なんとかならんかなあ」と思う次第です。

まあ、結局のところそういう「生きづらい世界」からは自然と距離を置くようになりましたし、その結果出会った人や手に入れたものも沢山あるのですが。


インターネットの普及で、一層と人の心が平板化しているように錯覚してしまいがちですが、もっともっとアナログで濃淡のあるものだと思っていますよ、人間の心は。

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