2015年11月30日月曜日

年齢は無次元数


ネットで「精神年齢鑑定」なるサービスがあったので、受けてみたのですが、



結果は「43歳」



でした。


(ちなみに、実年齢はこの記事執筆時点で26歳です)




うーん、どうなんでしょう。


よく、「肌年齢」の診断とかもありますけれど、


やっぱり、実年齢よりも結果が高いと判定されると、あまり良いものではないんでしょうか。




ただ、今回の場合は全然驚かなかったんですね。


「そうか、43歳なのか」と(笑)




最近思うんですが、そもそも「年齢の判断基準」って、どこにあるんでしょう?


ぼくは昔から、実年齢より数年年上に見られることが多くって、今だとたぶん「30歳」って言っても、初対面の人であれば半分くらいの人は信じると思います。



まあ、ぼく自身も、「26年以上絶対に生きているよな」と思うくらいに(笑)いろんな経験をしてきてはいるんですが、


「1歳としを取る」って、ものすごく評価や測定が難しいですよね。



これが例えば、「1m」とか「1℃」とかの単位だと、基準が決まっているわけです。

(1mは、地球の周囲の長さをどうにかして計算した結果で、1℃っていうのは、水が沸騰する温度を100℃にした時の、100分の1ですね)


こういう単位を使う時は、コミュニケーションを取るもの同士でおおよその価値認識が共有されているわけですから、話が進みますし、共有されている宇宙が同じなわけです。

(「1kg」という単位を用いたときに、A地点からB地点までの距離を思い浮かべる人はいませんよね?)



★★★


これからすると、「年齢」なんてものはものすごく曖昧な単位で、もはや存在しなくてもいいんじゃないか、という気さえしています。


だって、年齢の基準となるものは、「地球が太陽の周りを一周した時」です。そもそも、この概念を単位の基準にすることと、世の中で「年齢」が問題にされる時に絡んでくる考え方は、多くの場合関係ありません。

(まあ、厳密に言うと人間が作った「カレンダー」が一周する間が「1歳」なんでしょうね)


例えば、地球が太陽の周りを20周すると、日本では「成人」になりますよね。これ、年齢の単位基準と何の関係もありません(笑)


年齢の場合、科学の世界よりも「社会性」のファクターが強くなってくるので、もう少し違う抽象概念で「年齢」を定義してもいいと思うんですが、そもそも社会の成り立ちも「社会ごと」に違ってくるため、「◎歳になったら●●」とか「■歳になっても▲▲」というのは、ものすごく話者の主観というか、価値観に依存してしまう部分があるわけです。


(アフリカのどこかの民族と東京では、「20歳で結婚をする」という意味は全くもって異なってくるでしょう)



こういうことを考えてみると、自分の実年齢がどうだ、とか精神年齢がどうだ、っていう話をすることでショックを受けたり、逆に生きる力をもらったり、というのは、すごくナンセンスのようなことに思えてきます。


ぼくの場合、実年齢が26歳であることにも、精神年齢が43歳であることにも、「ああ、そうなんだな」という感想以外に、持てないわけです(笑)



だって、実年齢が43歳の人でもいろいろと居ますしね。


もちろん、自分が想像していた「26歳像」と違っている、ということを悩んだりすることはあると思いますが、そもそも年齢に対する考え方なんて個人の主観に左右される部分が殆どな訳ですから、「30歳なんだから●●」なんて、意味のない単位を物差しにして測定するのではなくって、


「自分の中ではもうこれだけやったから、次の世界に行きたい」

とか


「時間をかけたけれど、まだこちらでやりたいことがある」みたいに、


数値を排除した世界で感覚的に判断して行動すればいいんじゃないでしょうか。




世の中の単位を見るときも、だいたいはそうですよね。


コップの中にある液体に手を入れてみた時に感じることは、自分が思ったより「熱いか、冷たいか」という物差しでしかありません。


この時に、自分の中で「きっと20℃だな」という部分までは想像できないわけですし、「残念!この液体の温度は53℃でした!」なんて言われても「知らんがな!」と返してしまうものです。



大事なのは、意味を持たない数字(数値)に惑わされることなく、
数値化できない自分の判断基準(軸)を持つ、ということではないでしょうか。


(もちろん、ある内容に3年間で1日10時間を投入してきて結果が出た/出ない、という風な考え方をすることは、問題ないです)






こういう風に考えてみると、「年齢」っていう考え方は面白いですね。




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