が好きだ。
「知性を感じる」とはどういうことか?と聞かれると、説明するのが難しいのだが、自分なりには
難しい内容を分かりやすい言葉で説明していて、読んだ後に「勉強になった」と思える文章
であったり、
文学作品などからの引用がさらっとされている(または、そういうことが感じられる)文章
であって、小難しい論理的な文章よりも、エッセイなどに多い。
「文学作品などからの引用がさらっとされている(または、そういうことが感じられる)文章」という表現はまた、分かりづらいかもしれないが、例えば
『前の冬は北海道に旅行に行って来たのだが、列車に乗っていた時、トンネルを抜けた時に目にした光景は、まさに国境を抜けるトンネルから出たときのものに近かった』(川端康成の「雪国」の冒頭を持ち出す)、
とか、
『あのニュータウンにできたスーパー銭湯なんて、カラカラ帝もびっくりの作りだ』(カラカラ浴場を作った古代ローマの皇帝を持ち出す)
とか、文学作品からの引用じゃないが、読んでいて「くすっ」っとなるようなものも含まれる、ということだ。
自分も、そこまで文学作品や世の中の「教養」と言われているものに対する造詣は強くはないほうだし、小説なんでほとんど読まないから、本当は書き手の知性が埋め込まれている文章を読んでも、見事にスルーしてしまう時のほうが多い、とは思っているのだけど、
何気ない文章の中に、著者のさりげないこだわりや機知を垣間見たとき、そして、その著者と「なんとなく話合いそうだな」と思えた瞬間の感覚が、言い様がなく好きなのだ。
その「知性」には、「フィルター」という意味合いも込めている。
例えば、寿司を口にして「旨い」とは誰でも言えるだろう。
しかし、その表現の形容に、どんな言葉を使うのか、どんな世界観が宿っているのか。一見「寿司」とは関係のない世界を持ち出して、その「寿司」の旨さを表現する人は一定数いるが、私はそういう人の感覚や、その感覚がさりげなく出てくる言の葉を愛でる修正があるのかもしれない。
(ちょっと、今手元に「寿司」がないので、自分は即興で形容ができないのだが…)
知性が感じられる文章や人に出会うと、自分の知的好奇心が心地よく満たされる。
別に、そういう知性があるからといって、びた一文にすらならないだろうし、ましてや夜更かしなんてしてしまって、健康にはどちらかと言えば悪いかも知れない。
しかし、そういう次元の話とは別に、自分が見つめている対象からほのかな知性が感じられると、その対象がこれまで経験してきたこと、出会ってきたもの、感じてきたオーラなど、その果てしない積み重ねの一端を垣間見ることができたような気がして、大変心が豊かになった気がするのだ。
そして悲しいかな、そんな知性をさりげなく出しているような対象は、そんなに多くは存在しない。
試しに、ウェブでも見て欲しい。一般人が書いた文章で、その人の背景に脈々と流れている教養や知性を、その片鱗だけでも感じたことがあるだろうか。
残念ながら、私はほとんどない。
(もちろん、一般人にそれを求めるのは酷な話ではあるけどね)
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