「物事は中庸がいい」という考えは、論語でも説かれていますが、(というか『中庸』っていうのが四書に含まれています)
この、「中庸」を探し当てるにはどうしたらいいのか?
これは案外、難しい問題です。
おおざっぱに解釈をすると、この「中庸」というのは「バランス」という考え方ですね。要するに「バランス良く行こうよ!」みたいなノリ(っていうか、確固たる考え方)なわけです。
じゃあ、要するに「バランスを取ればいいのね」って話になるんですが、一体ぜんたい、バランスなんてどうやったら取れるのか?これって簡単な話じゃないです、ハイ。
一番いけないのは、最初から「バランスを取ろう」と思って縮こまってしまうこと。これが一番よくない、というか、そもそも「頭で考えていても、バランスなんてとれない」ってことに気づくべきなんですよ、我々は。
皆さんはおおかた、幼い頃に自転車に乗る練習をしたと思うんですが、最初は「コマ」を後輪につけて、それから片方だけ取って…とかを繰り返して、自転車に乗れるようになったわけですよね?
この時を思い出して欲しいんですけど、「バランスを取って」自転車に乗れるようになるには、
・左にこける
そして
・右にこける
ってことを両方、経験しないといけなかったわけです。
コマを片方、例えば左側だけ外すと、
左側に倒れないように、必死に右側に重心をかけて、右のコマが地面に付くように漕いでいましたよね?
逆のコマを外したときは、逆に重心をかけていましたよね?
で、片方だけコマを外して乗れても、反対のコマを外して乗れば最初は重心の取り方が上手く行かなくて、コマのないほうに絶対にこけましたよね?
僕もそうでした(笑)
ですが、この「自転車に乗れるようになる」という通過儀礼を観察すると、すごく重要なことに気づかされるわけです。
それは、上に書いたように
左にも右にもこけること
を一度、経験するということなんです。
両方にこける経験をするからこそ、その中間で上手くバランスを取れるようになって、「二輪の自転車」を運転することができるようになるわけです。
翻って「中庸」にたどり着くのであれば、思いっきり左右両側に倒れる経験をしないと、「いい塩梅」を経験知として得ることができないんですよね。
別に、「右と左」って、思想の話じゃないですよ(笑)
要するに、「二極が存在する両極端を両方、経験してみる」ってことをしない限り、「中庸」にはたどり着けない。
例えば、「ものすごく自己中心的に生きてみる」ということを、やってみましょう。
自分の手柄は自分のもの。
他人の手柄も自分のもの。
まあ、ただのジャイアンでしかないわけですが(笑)、
一度、「世界の中心は自分だ!」という風に、中二的に生きてみるんです。
そうすると、不思議なことに、「自分1人では生きていけない」ということに気がつきます。
毎日、通勤のために電車を運転してくれている運転士さんがいるわけですし、
昼食を食堂で作ってくれるパートのおばさんがいる。
というか、取引先がいなければ、自分の給料は生まれないわけです。
「自分中心的にとことん生きる」ということを通して、「自分中心では生きていくことができない」ということが分かりました。
そうなれば、次は「真逆」をやるのです。
そう、とことん他人に尽くす人生。
仕事でもプライベートでも、「自分のため」の時間は一切無し(笑)
とことん「他人のため」に生きてみると、お礼を言われたり、達成感があったり、まあいろんな部分でカタルシスを覚えます。
これはこれで良いことなんですが、そこでもまた、気づくわけですね。
「他人に尽くしてばかりだと、自分がなくなってしまう」と。
BUMP OF CHICKENの fire signという歌の歌い出しで、
誰かの為に生きるという 思いを込めた旗を抱き
拾ってきた笑顔の中に 自分の笑顔だけ見当たらない
というフレーズがありますが、
まさに、そういうことになってしまうわけです。
わかった。これはこれで辛い、と。
この両方を経験するからこそ、「自分のために、そして他人のために」という、「いい塩梅」「ほどよい力加減」の場所を探し当てることができるわけです。
自分は生きていると感じますが、
自分のことだけを考えて、自分優先で物事を考えると、あまり上手く回っていかない。
そこで、他人のことを考えて行動をするが、その中に「自分」がすっぽぬけていたら、同じようにむなしさを覚えてしまいます。
だからこそ、「自分も納得して、相手も喜んでくれる」という「着地点」を探れるようになったわけですが、
ほんと、「中庸」なんてそんなに簡単にたどり着けるものじゃありません(笑)
ただ、「両極端に一度振れてみる」ってことは、意識して実践してみてください。
少しは高い世界に踏み込めます。
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