2016年3月30日水曜日

ブログタイトルに込めた意味



去年の秋頃に突如ひらめいて変更した、このブログのタイトルですが、


当然ながら、そこに思いはあるわけで。




世の中には、「自由になりたい」と思っている人は多いです。


「自由」の定義は人それぞれだと思いますが、そういう世界に足を踏み入れたい、と思っている。


恐らく、20代の前半で誰もが一度は思ったことがあることでしょう。



しかし、



しかし、ですよ。



世の中には、いろいろと「お作法」が存在しています。ぶっちゃけ、下らないお作法が殆どなので、それらを真面目に勉強して身につける必要はないと思いますが、


それでも、最低限押さえておきたいマナーはあるよな、と。



そして、「自由になりたい」と思っている人に限って、そういうマナーすら身につけることなく、「夢を追いかける自分がイケている」なんてことを、ブログで発信していたりするわけです。




なんだか、それは違うよな、と。


人それぞれの価値観、人生なので、他人がとやかくいう必要も資格もさらさらないのでしょうが、どうも最近、「自由である」ことを強要されている人が多い、というが、すごく「紋切り型」の「自由」を求めている人が、増えているよなあ、という印象を抱くことが多くなりました。


もっと言うと、「自由であることを強要されている」ような状態でしょうか。



それは、本末転倒ではないかと。



自由になるために必要なのは、マインドセットであったりマナーであったり、根源的な部分、深層的な部分である、と僕は思っています。



文字通り「自由」であることに制約はありません。極端な話、なにをやっても自由なわけですから、個々が描いている世界を表現して人生を謳歌できることが、真の自由であり、理想的な世界だと言える。そう思っています。


そして、その時に必要なのが、なんというか「自由になるための教養」だと思うんですね。


教養、の具体的な内容については、これからも書き綴っていこうと思いますし、既に幾つかの記事では書いていますが、


自由のための「コア」となる部分が存在している、と思っているのです。


この「コア」を持っていれば、誰でも自由になれると思います。




が、現実を見てみると、逆なのです。


誰も「コア」を持っていない。というよりは、持っているのかもしれないけど「見えない」というほうが適切かもしれません。


そして、その空っぽの中身を伴ったまま、各人がそれぞれに、紋切り型の「自由」を表現している。



これって正直、不自由だと思いますよ(笑)


だから、自分なりに大事なことを、ブログを通して伝えていこう、と。


そういう想いが、自分の中にあるのです。








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