2016年3月19日土曜日

世の中の大多数の人間には、評論家になる資格がない



世の中を見ていると、自分がいかにも世界を知っているかのように振る舞う「評論家」気取りの人間が多いことが、目に付く。



その一方、これはある機会に聞いた話なのだが、「自分のステージが上がっていないのに、評論家になってはいけない」という金言が、存在する。



どういうことか。



何かを評論することができるためには、まずあるステージで何かにがむしゃらに取り組む「打ち込み」が必要である、ということだ。


その上で、結果の有無にかかわらず、その打ち込んだ「何か」をやっと、評論することができる、と。



プロ野球などでも、かつて選手として活躍をしていた人が今や評論家となって重鎮と化している場合があるが、あれは紛れもなく、自分自身が「プレーヤー」として打ち込んだ時期があるから、できる芸当なのである。



しかし、こういうケースはどちらかというと稀で、世界を見てみると、何かに打ち込んだことすらないのに、その「何か」を全て知ったような顔をして、評論する人間が多く存在する。



個人的に思うが、やっぱり「何か」を経験しないと、評論をする資格はその人間にはない。



というのも、評論というのは、それ「だけ」が別個として存在するものではなく、その評論する「対象」と切っても切れない関係性があるから、である。



評論「だけ」を別のものとみなして切り離してしまうと、その評論自体が説得力のない行為になってしまう(即ち、厳密に言えばそれは「評論」ですらないものになり下がってしまうのだ)。





例えば、自分はブログ記事を1000個書いたから、ブログを続けることと情報発信のことや、マネタイズの話をメタ的に評論することが、理論的には可能なのであって、ブログの記事を100個も書けない人が使う言葉よりは、明らかに説得力を持てるものとなっているだろう。



つまりは、そういうことなのだ。


結果が出るか出ないかに関わらず、何かに取り組んでみる、即ち「経験をしてみる」ということが、評論を始めるための紛れもない第一歩になる。



それを頭で、そして肌感覚で理解できていない限り、その人に何かを評論する能力も、資格もない。



そして、そんな資格すらない人間が世の中の9割以上を占めている。


例えば、ブログ飯について評論をする上で、最低ブログ記事は1000個書かないと、殆ど何も見えてこない。つまり、そもそも土俵に上がれていない人ばかりなのだ。



世の中はなかなかどうして、「プレーヤーとして活躍できない人が評論家になる」という構図が強く存在してしまっているようだ。


だが、真理は違う。プレーヤーになろうとしたものしか、評論家にはなることができないのだ。




「世の中を動かしているのは、世の中をよく知らない奴らだ」とは、ここ最近自分の頭の中を駆け巡っている金言である。





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